Attending Daedalus

Last Updated:

05/30/2004




ピーター・ライトによる "Attending Daedalus" について

Attending Daedalus"Attending Daedalus: Gene Wofle, Artifice and the Reader" (Liverpool University Press, 2003) は、英Edge Hill Collegeの英文学講師であるPeter Wrightによる「新しい太陽の書」シリーズに関する評論であり、一冊まるごと「新しい太陽の書」を論じた書物としては世界初のものです(用語集としては、Michael Andre-Driussiによる "Lexicon Urthus" があります。またピーター・ライトが「新しい太陽の書」を論じた文章でウェブ上で読めるものとしては、"Mapping a Masterwork: A Critical Review of Gene Wolfe's The Book of the New Sun" があります)。以下は出版元による本書の紹介文です。

"Attending Daedalus" は、ジーン・ウルフの四部作「新しい太陽の書」および続編の "The Urth of the New Sun" を論じた初の文学評論である。ピーター・ライトは、ウルフが読者に対し複雑なゲームとして提示する話法を読み解くにあたり、一般に流布している宗教的なテクスト解釈を回避しつつ、議論を呼ぶであろう、進化論に基づいた完全に世俗的な解釈を示している。ウルフの傑作シリーズの心臓部に隠された物語を明らかにした後ライトは、ウルフが「主観性の問題」「記憶の不確かさ」「社会的・政治的システムによる個人の操作」「神話・信仰・象徴の影響力」といった、彼の作品に繰り返しあらわれる主題を、読者自身の読書体験にまで拡張すべく綿密にテクストの迷宮をデザインしているのだとし、その説を実証するため数々のアプローチを採用している。ウルフの30年間にわたる作家キャリアの諸作品のみならず、受容理論、古生物学、ルネッサンスのヘルメス学、神話学、さらにSFのサブジャンルである「死にゆく地球」関連作品からの引用をもとに、ライトは21世紀SFの主要な作品に関して、包括的かつ綿密な分析を展開している。 --同書裏表紙より

ピーター・ライトによればウルフは、多くの批評家から最高のSF作家の一人と見なされているにも関わらず、その作品は実は、表面的な引用やスタイルを超えたレベルで分析されることがほとんどなかったとのことです。これはウルフ作品が一貫して、読者・批評家の側に努力を強いるよう書かれており、しばしば意図的に読者を混乱させる話法を採用しているためではないかと思われます。多くの批評家は、自分の解釈のもっと先に何かあるように感じつつも、確信が持てないがゆえに、例えばウルフのスタイルや文学性を賞賛したり、あるいは細部の描写や象徴的引用の解読に過剰に没入したりしてしまっているわけです(このあたりは当サイトの管理人にも当てはまりますね)。

読者・批評家によるウルフ作品の受容

まず最初にライトは、作家デビュー当初から一貫してほとんどのウルフ作品に存在するいくつかの主題をとりあげます。1967年にデーモン・ナイト編の Orbit 2 に掲載された "Trip, Trap" では、登場人物の外界認識の主観性が早くも強調されていますし、批評家からほとんど無視された1970年の第1長編 "Operation Ares" では、人工的に創られた神話と、個人を操作し欺くための体系的なシステムの存在がテーマとなっています。1972年の連作長編「ケルベロス第五の首」では、複雑にからみあったテクストと話法により、あやふやな主観性・自己認識が強調されるとともに、さまざまな形でテクスト中にあらわれる鍵を読者が読み解くことが求められます。

1975年の長編 "Peace" では、主人公の記憶の曖昧さが重要な主題になっており、読者は主人公が記憶して語る物語と、実際に起こったであろう現実とのギャップを自ら埋めることが求められます。実はこの物語の主人公は幽霊なのですが、それが物語中はっきりとした形で書かれていないため、発表当時あらゆる批評家がこの作品を普通小説とみなしており、後になってウルフ自身があるインタビューで自分の意図を明かさざるをえなかったとのことです。1976年の長編 "The Devil in a Forest" は中世ヨーロッパを舞台としたジュブナイル・ファンタジーとみなされたためにほとんど批評家の注意を引くことはありませんでしたが、例えばウルフは登場人物の一人のロビン・フッド的な英雄としての側面と血も涙も無い殺人者としての側面を交互に描くことにより、読者の登場人物に対する感情移入の度合いを自在に操ってみせます。

このような作品群の後に発表された「新しい太陽の書」は、第1作の「拷問者の影」から読者・批評家の熱狂的な支持を集めたものの、それはさまざまな象徴的、宗教的、また古今の先行作品に対する引用に富んだ重層的な作品世界の構築に対する賛辞であり、その一方、例えば「ケルベロス第五の首」のように読者に知的な努力を強いる作品とは思われませんでした。例えばマイケル・ビショップは次のように述べています。

(「拷問者の影」は)人並みの知性と読書力のある読者なら誰でも楽しめる作品だ。「ケルベロス第五の首」が注意深い読者にも不注意な読者にも同様に投げかけたようなテクスト解釈上の問題は、確かにこの作品には存在しない。-- Michael Bishop, ‘Pitching Pennies Against the Starboard: "Gene Wolfe as Hero"’, Thrust: Science Fiction in Review, Fall 1980, pp. 10-13

ところが、その二年後に「独裁者の城塞」が出版されると、そのいささか唐突と思われたSF的結末に多くの批評家は戸惑ったようでした。例えば同書の日本語訳に付されている鏡明氏の解説などが典型的なものでしょう。

多くの人が、評価する最後の証明は、私にはコミカルなものに思えたし、突如として主人公が判断力を失って危地に陥ったり、あまりに御都合主義に思える状況に出食わしたりすると、やはり笑い出したくなってしまうわけだ。それは、SFやファンタシィというジャンルそのものの弱点であり、その優れた作者にして、そこから逃れられないのかというあきらめに近い感情から生まれてくる。そして、笑い出したくなるが、そうした弱点の存在が、一層この作品に私を引きずり込んでいってしまうのだ。 --「独裁者の城塞」解説

ライトの解釈が正しいならば、ここで鏡氏の言う「コミカルな」「ジャンルそのものの弱点」に対する違和感の存在こそが、ウルフが読者に対して仕掛けたゲームを読みそこなった結果である、と言えます。

1987年に "The Urth of the New Sun" が出版されると状況が一変します。この第5部は「独裁者の城塞」で鏡氏や欧米の多くの批評家が不自然に感じたSF的結末を展開したものです。一部の批評家は、この作品を先行する傑作の自然な延長と考えて賞賛したのに対し、別の批評家たちは、四部作に比べると些か出来が劣るものだと考えたようです。一方1986年に発表された "Soldier of the Mist"、1989年の "Soldier of Arete" は、ペルシア戦争時の古代ギリシアを舞台に、前日以前の記憶を維持する能力を失ったローマ人兵士が「翌日の自分に向けて書く手記」という体裁の物語ですが、こちらは完全な記憶を持つセヴェリアンの物語の鏡像関係として、ある意味わかりやすく一般読者にも批評家にも受容されたようです。ところがライトによると「新しい太陽の書」の重要な主題を読み解くための類似点については、依然として看過されてしまったようです。

その後もウルフはいくつかの作品で、同一の主題の変奏を示しますが、引き続き一般読者・批評家の解釈は(ライトの意見では)ウルフが彼らに期待しているレベルにまで踏み込んだものではなかったようです。1993年の "Nightside the Long Sun" に始まる "Long Sun" シリーズにおいても同様で、表面的・象徴的な比較はあっても、ウルフが「新しい太陽の書」の中で意識的に隠蔽していた主題の理解に対する鍵の部分は、全くと言っていいほど無視されてしまったようです。このような傾向に対してライトは、次のような一貫した主題の理解を強調し、この方法による「新しい太陽の書」の再解釈を主張します。

作家としてのキャリアの最初期からジーン・ウルフは、互いに関連しあった心理的現象への強い関心を示しており、それが彼の全作品を理解するのにきわめて重要な鍵となっている。そのような心理的現象とは、存在論的現実の主観的認識、認識した現実の記憶による再構成、経済的・政治的・宗教的システム内での個人に対する心理的操作、内的なファンタジーと外界の現実との関係、神話・信仰・象徴の心理的な影響力などである。-- Peter Wright, "Attending Daedalus", p. 23

経済的・政治的・宗教的システム内での個人に対する心理的操作

鏡明氏が「コミカル」と感じた「最後の証明」とは、直接的には「独裁者の城塞」の最終章にあるセヴェリアンの述懐を指すと思われます。

わたしには二つのことが明らかである。一つは、今のわたしは最初のセヴェリアンではないということである。<時>の回廊を歩く者は、彼が<不死鳥の玉座>につくのを見た。こうして、私のことを知らされた独裁者が、<紺碧の家>で微笑し、また、わたしが溺れるにちがいないと思われるところで、水の精(ウンディーネ)がわたしを突き上げた、ということになったのである。(中略)

第二には、次のようなことである。彼は自分の時代に戻らずに、自分自身が回廊の歩行者になってしまった。わたしは今は<日の頭(かしら)>と呼ばれる人の正体を知っており、また、あまり近くにいすぎたヒルデグリンが、われわれと出会った時になぜ消滅したか、そして、あの魔女たちがなぜ逃げたか、知っている。--「独裁者の城塞」第38章

確かに取って付けたような告白ではあります。そもそもセヴェリアンの述懐は、読者を煙に巻くかように理解不能であることが多いのですが(その理由については後述します)、この部分で登場する<もう一人のセヴェリアン>というのはいったい何なのでしょう。ひょっとするとこの物語には第一のセヴェリアンと第二のセヴェリアンとによるタイム・パラドックスもののような仕掛けがあるのでしょうか。もちろんその可能性を否定はできませんし、また時間の円環構造は「新しい太陽の書」の重要なモチーフではありますが、それにしてもタイム・パラドックス作品としての伏線のようなものは見当たりません。それでは四部作の最後の章に突然挿入されたこの述懐は何を意味するのでしょう。ヒントは上記引用部分の直前にあるようです。

騙されたと思う前に、わたしがもう一度書こうとしているように、もう一度読んでいただきたい。--「独裁者の城塞」第38章

ウルフは読者がセヴェリアンの説明にもなっていない説明に「騙された」と感じることを認めた(というかそのように仕組んだ)上で、そこにはそれ以上のものが存在することをあからさまに示し、再読を半ば強要しているのです。

取って付けたようなと言えば、もう少し前の部分で、アクアストルとしてセヴェリアンの前にあらわれたマルルビウス師が語る宇宙の真理に関する説明も、これまで1600ページ以上にもわたって良くできたファンタジー世界を楽しんできた読者にとっては、いかにも取って付けたようなものに思えるのではないでしょうか。

ある神聖な年に(われわれには本当に知覚されない時間であるが、宇宙のこのサイクルは果てしない継続のひと駒にすぎない)、マルルビウス師が人間と呼ぶのをためらわなかったほど、われわれに似た一つの種族が生まれた。その種族は、その宇宙のあまたの銀河系の間に広がった。(中略)

これらの人々は他の世界で、ある程度まで知能があるか、あるいは少なくとも知能を持つ潜在能力のある多くの生物と遭遇し――彼らが銀河と銀河の間の孤独な空間での伴侶となるように、また、おびただしい世界での同盟者になるように、彼らから、自分たちと同じような生物を作り出した。

それは急速にも、容易にも、できることではなかった。彼らの指導の手のもとで、何億何兆もの者が苦しみ、死んでいき、あとには拭い去ることの出来ない苦痛と流血の記憶が残った。(中略)できあがったものは人類に似た新しい種族ではなくて、人類自身がそうなりたいと望んでいたような種族だった。一致団結し、同情心の厚い、公正な種族。(中略)

何はともあれ、彼らは今われわれを、彼らが形成されたように形成する。それは彼らの返済であり、同時に復讐でもある。(中略)

われわれは鍛冶場で、これらの火箸につままれているのだ。--「独裁者の城塞」第34章

ここで(かなり意図的に)あっさりと語られているのは、かつて宇宙のあるサイクルにウールスの人類とよく似た種族(これは即ち<自存神(インクリエート)>であるわけですが、第5部では<神聖なもの>"hieros" と呼ばれます)が存在し、自らの伴侶とするため「何億何兆もの」「苦痛と流血」の末に「公正な種族」を造りだしたこと、その「公正な種族」は今度は「返済」と「復讐」のためにウールスの人類を「形成」すべく「火箸に」つまんでいる、というヴィジョンです。ここで言及される「公正な種族」とは第5部 "The Urth of the New Sun" で登場する<神聖書記(ヒエログラメート)>に他ならず、ウールスを度々訪れる<退化人(カコジェン)>、つまり<神殿奴隷(ヒエロデュール)>や、マルルビウス師などのアクアストルはその目的のために奉仕する僕です。

「独裁者の城塞」までを読んできた読者にとって<神殿奴隷>は、その本当の目的はうかがい知れないものの、セヴェリアンと、そしてウールスの人類を教え導く、なにか神聖かつ倫理的な存在に感じられるはずですし、また折にふれてなされるセヴェリアン自身の述懐もその印象を強めています。<独裁者>でありまた第5部では<調停者>となる(そのことは第4部までしか読んでいない読者にも容易に推察できるでしょう)セヴェリアンの姿は、明らかに宗教的なものであり、端的には救世主であるイエスに類似するイメージが示されます。その倫理的である(と思われる)<神殿奴隷>が仕えている<神聖書記>が、一方では「公正な種族」と呼ばれながら、他方で「苦痛と流血」によって造りだされた存在であり「復讐」のために人類を「火箸」につまんでいる、というのは、なんとも分かり難い矛盾したイメージであるように思われます。

"The Urth of the New Sun" では、セヴェリアンは<神聖書記>の世界であるイエソドに旅して、審判を受け、ウールスに<新しい太陽>をもたらすことに成功しますが、その結果ウールスには災厄がもたらされることになります。セヴェリアンをはじめウールスの人々は<新しい太陽>による救済を熱烈に求めていたわけですが、結局やって来たのは救済とはほど遠い人類の大量絶滅であるわけです。また審判の場において裁きをおこなうはずの<神聖書記>ツァドキエルは、彼の裁きは公正なものではありえないこと、実は審判は既に終わっており、セヴェリアンは彼がもたらす未来のゆえにテストに合格したこと、またそれは時間の中を自由に行き来する<神聖書記>の能力によって、あらかじめ定められていたことなどを告げます。

上記の部分は例によって宗教的なモチーフとセヴェリアン自身の体験する啓示とで修飾されており、また直後にセヴェリアンを取り巻く状況が急変するために看過されがちですが、ピーター・ライトは、この部分において「新しい太陽の書」およびウルフの多くの作品の本質的な主題が示されていると考えます。すなわちウールスの人類は<神聖書記>という超越的な力を持ちつつも、あくまでも世俗的な生物の利己的な都合によって操作されていること、操作の事実は宗教的、象徴的な隠れ蓑により巧妙に隠匿され、また人類自身の宗教的な説明を求める心理が効果的に利用されていること、<神聖書記>による利己的な人類の操作には<新しい太陽>の到来とそれに伴う大量絶滅が必要であり、それに盲目的に服従する指導者としてセヴェリアンが選ばれたこと、などです。<神聖書記>の種族は、かつて自分たちを拷問によって苦しめながらも形成した「ウールスの人類とよく似た」<神聖なもの>を存在せしめるため、ひいては自分たちの種族の存在を確かなものとするために、ウールスの人類(およびその他の世界に住む多数の人類)に影響力を行使して<神聖なもの>の種族が生まれることを保証しようとします。ウールスの歴史は、<神聖書記>のこの利己的な隠された計画によって歪められ、人類は<神聖書記>によって書かれた台本を知らず知らずのうちに演じさせられているわけです。後に論じるように、ウールスの社会・宗教体系、特に<新しい太陽>と<調停者>に対する信仰は、<神聖書記>とその手先である<神殿奴隷>によって書かれた台本にそっているというわけです。

これだけではあまり出来の良くない宇宙的な陰謀小説のようでもありますが、ライトによれば、<神聖書記>による操作の事実がウールスの人類とセヴェリアンから隠蔽されているのと全く同様に、ウルフが意識的にこの主題は読者からも巧妙に隠蔽しているというパラレルの関係にあるとのことです。セヴェリアンたちがやみくもに宗教的な心性に救いを求めて、<新しい太陽>が人類にとって救いなどではないという事実から目を逸らせてしまうのと同様に、多くの読者もウルフが目くらましとして配置した宗教的な寓意やテクストの引用に、作者の意図どおり過剰に反応して、隠された主題が見えなくなってしまっているのです(なお、作者の意図とか隠された主題とかをあまりに強調しすぎるのは一般論としてはちょっとどうかという気もしますが、本書におけるライトの目的は、あくまでもウルフが意識的に五部作に埋め込んだにもかかわらず、きちんとした批評の対象とされていない重要な主題を明らかにすることですので)。

ライトによれば、読者はこのような観点から「新しい太陽の書」を読み直すことが必要であり、そうすれば鍵は随所に見つかるはずとのことです。

われわれは記号を発明したと信じている。しかし、真実は、記号がわれわれを発明したのである。われわれは、それらの定義を下す固い刃によって形成された創造物なのである。兵士たちは宣誓をすると、独裁者の横顔を刻んだアシミ、つまり一個のコインを与えられる。それを受け取ることは、軍隊生活の特別の義務と重荷を引き受けることである――たとえ、武器の扱いを少しも知らなくても、彼らはその瞬間から兵士になるのである。--「拷問者の影」第1章

第1巻「拷問者の影」の冒頭の章におかれたこの部分は、直接的にはヴォダルスのコインがセヴェリアンに及ぼす影響をのべたものですが、同時に「新しい太陽の書」全体での主題を示唆するものでもあります。<新しい太陽>と<調停者>という、<神聖書記>によって導入された「記号」によって「われわれ」は発明され、たとえ<神聖書記>の意図、あるいは存在さえ知らないままでも「兵士」とされてしまっているのです。セヴェリアン自身にもこのような構図は全く見えていないにも関わらず、諸所にあらわれるこうしたヒントが、ウルフが読者に仕掛けたゲームを解き明かす鍵になります。

小さな人形は、そろってわれわれにお辞儀をすると、闘いはじめた。木の男は途方もない跳躍をし、棍棒をふるって舞台狭しと暴れ回った。少年は日光に浮かぶ細かい塵の粒のように躍って、それを避けながら、木の男に向かって突進し、ピンほどの小さい剣で切りかかった。--「拷問者の影」第15章

これはネッソスでの最初の晩、バルダンダーズと同じベッドで眠ったセヴェリアンの見る夢ですが、「警士の剣」でのバルダンダーズとセヴェリアンの戦闘を予言していると同時に、「新しい太陽の書」全体に存在する「他者によって書かれた脚本を演じる」セヴェリアンを示唆したものだと言えます。類似のモチーフはあらゆるところにあらわれています。例えばセヴェリアンが拷問者の身分を隠すためにマントを購入する場面では「演じる」ことがはっきりと示されます。

そして、そのマントを着て、この日があくまでもわたしに望んでいるように、役者になる方向に一歩踏み出した。実際、わたしは既に想像以上に大掛かりなドラマに参加していたのであった。--「拷問者の影」第17章

同様にしてアギアは騎兵隊長の衣装を身にまとい、アギルスは死者の仮面を、セヴェリアンは拷問者の仮面を付け、セヴェリアンはタロス博士の一行とともに「天地創造と終末」の劇を演じ、またアブディーススの仮面舞踏会に参加します。また「独裁者の城塞」ではマルルビウス師がセヴェリアンに対して物語の全体がドラマであり、セヴェリアンをはじめとする登場人物が役者であることを説明します。

「われわれはほとんど君の考えに近い――つまり、舞台の上から降りてくる能天使(パワーズ)だ。ただし、完全な神格があるわけではない。きみは今は役者をしているのだな」

わたしは首を振った。「わたしを知らないのですか、師匠? 子供の頃、教えてくださったではありませんか。そして、わたしは組合の職人になったのですよ」

「それでもやはり役者だ。ほかの者と同様きみも自分をそのように考える権利がある。<壁>のそばの野原で話しかけた時、きみは芝居をやっていた。そして、次に<絶対の家>で会った時には、また芝居をやっていたぞ。あれは良い芝居だった。結末を見たかったぞ」

「観客の中にいらっしゃったんですか?」

マルルビウス師はうなずいた。「役者としてだよ、セヴェリアン。たった今ヒントに出した文句を、きっと知っているだろう。あれは芝居がうまく終わるように、人格を付与されて最後の幕に舞台に出される超自然力のことだ。そんなことをするのはへぼ作者ばかりだとみんないうが、そういう人は、何も出なくて芝居がまずく終わるよりも、能天使が綱で吊り降ろされて、芝居がうまく終わるほうがよいということを忘れている」--「独裁者の城塞」第30章

マルルビウス師はアクアストルである自分が、<神聖書記>によって書かれた劇の「デウス・エクス・マキナ」つまり「機械仕掛けの神」であることを認め、その劇全体がある意味「へぼ作者」によって書かれた茶番であり、セヴェリアンやその他の人々も同じ劇を演じる役者であることを匂わせているのです。もっとも例によってこの重要な示唆は、その後に続くセヴェリアンの使命に関する擬似宗教的な啓示によって、読者の念頭から忘れ去られることになります。

それではセヴェリアンが<神聖書記>によって<新しい太陽>をもたらすものとして選ばれたのは、いかなる理由によるものなのでしょう。ライトによると、理由のひとつは一切の判断を交えずに権威に完全な服従をおこなう拷問者の特性によるものです。

聖キャサリンの日に職人に昇格する前、わたしはパリーモン師とグルロウズ師から組合のいろいろな秘密を明かされたものだが、この自叙伝を書きはじめた時には、それらの秘密をたとえ少しでも漏らすつもりはなかった。しかし、今その一つをお話しようと思う。なぜなら、それを理解しなければ、わたしがこの夜にディウトルナの湖上でしたことが、理解できないからである。その秘密とは、われわれ拷問者は服従する、というだけのことである。高く積み重なったすべての統治体の中で――どんな物質的な塔よりもはるかに高い、<鐘楼>よりも、ネッソスの<壁>よりも、テュポーン山よりも高い生業のピラミッドの中で――独裁者の<不死鳥の玉座>から、最も不名誉な職業の者、またその下働きをしている最も卑しい使用人にまで及んでいるピラミッドの中で――われわれは唯一の無傷の石なのである。想像もできないようなことを従順に実行する意志がなければ、だれも真に服従しているとはいえない。そして、われわれ以外に、想像もできないようなことをする者はいないのである。

キャサリンの首をはねた時に、みずからすすんで独裁者に与えたものを、どうして自在神に断ることができようか?--「警士の剣」第31章

ここで拷問者だけに可能な「想像もできないようなことを従順に実行する」特性こそが、<神聖書記>の利己的な理由によるウールスの破壊を可能とするものなのです。それにしても、<神聖書記>はいったいどのような手段を用いて人々を、とりわけセヴェリアンを操作し、支配しているのでしょうか。その答えは「警士の剣」巻末でセヴェリアンが体験する、<調停者の鉤爪>による(擬似)宗教的な忘我の境地に明らかでしょう。

こうしてサファイアのケースなしに見ていると、首長の家で奪われる前の日々には決して気づかなかったある効果を、わたしは深く感じた。それを見ると必ず思考が拭い去られるように思われるのだ。酒やある種の麻薬のように、それにふさわしくない精神を溶かすのではなくて、名づけようのない高度の状態と、精神とを置き換えることによってそうするのである。わたしは何度も何度も自分がその状態に入るのを感じ、そのたびごとにより高く昇っていき、しまいには自分が正常と呼ぶ意識のモードに戻らなくなるのではないかと恐怖を感じ、何度も何度も、そこから精神を引き離すのだった。そして、戻ってくるたびに、広大な現実に対する表現不可能な洞察力を得たと感じるのだった。

ついに、これらの大胆な前進と恐ろしい退却とを長いあいだ繰り返した後に、自分が持っているこの微小な物体について、真の知識に到達することは決してないだろうと覚った。そして、この思想とともに(これは一つの思想だったから)、第三の状態がやってきた。何かわからぬものへの幸福な服従の状態。反省抜きの服従。なぜなら、もはや反省することは何もないのだから。そして、ほんの少しも反抗の気味のない服従。この状態はその日いっぱいと翌日の大部分にかけて、持続した。この頃には、わたしはすでに山岳地帯に深く入り込んでいた。--「警士の剣」第37章

数々の拷問者たちの中でセヴェリアンが特に選ばれたのは何故でしょうか。それはセヴェリアンの持つ完全記憶と、セヴェリアンの一人称で書かれた「手記」というこの物語の話法と密接に関連しています。(この項続く)

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