学生とその息子の物語

Last Updated:

07/06/2002




「学生とその息子の物語」―「茶色の本」より

<絶対の家>の<控えの間>に囚われたセヴェリアンが「茶色の本」の中で見つけてジョナスに語る物語です。

昔、牧場化されていない海のほとりに、青白い塔の立ち並ぶ町があった。そこには賢者たちが住んでいた。今、その町には掟と呪いとがともにあった。掟とは――住民の全てにとって、二つの生き方があった。つまり、賢者の中で育てられ、多色の頭巾をかぶって歩くか、または、町を去って友人のいない世界に入るか、どちらかでなければならなかった。--「調停者の鉤爪」第17章

この町に住む一人の学生に自分の進む道を決める時が訪れ、彼は自分の夢から肉体を持った息子を創りだして自分の能力を証明することを選びます。学生は長いこと一人きりで自室にこもり、ついに夢から肉体を持った存在を生み出すのに成功します。

やがて、最初は稀だったこれらの顕現は――実際、最初は雷鳴が青白い塔の間に轟き渡る夜だけにほぼ完全に限られていた――次第に珍しくなくなり、そのもう一人の人間の存在のしるしが間違いのないものになってきた。何十年も棚から降ろしたことのない本が、椅子のそばに落ちていたり、窓や扉の錠前が自然に開いたように思われたり、過去何年間もだまし絵程度の恐ろしさしかなかった古代の偃月刀が、緑青を擦り落とされて、輝きを増し、新たに研がれていたりした。--「調停者の鉤爪」第17章

この町にはある呪いがかかっていました。毎年春になると、金髪と緑色の服地のために<穀物の乙女>と呼ばれる美しい乙女たちを、黒い帆の船に乗せて食人鬼のもとに送らねばならなかったのです。夢から肉化した若者はこれをきくと、魔法使いの町の若い男たちを集め、装甲板を張った頑丈な船に乗って、食人鬼から<穀物の娘>たちを取り戻すために船出します。やがて食人鬼の島に辿り着いた一行は、大勢の<穀物の乙女>たちと、ノクチュラという名の姫に出会います。ノクチュラ姫は食人鬼が<夜>を犯して生まれた娘で、父への復讐のため、夢から肉化した若者に食人鬼を倒す方法を教えます。

たくさんの小島を通過するときに彼らが目撃した不思議な光景を話せば、この物語と同じくらいの長さの物語が一ダースも必要になるだろう――花のように茎に生えた女たちが、船の上に身を乗り出して、彼らにキスをし、その頬の粉を彼らの顔につけようとしたとか、ずっと前にワインのために死んだ人々が、自分の命が終わったのも気づかないほど馬鹿に名って、ワインの泉のほとりに横たわって、まだ飲んでいたとか、手足がねじまがり、見たこともない色の毛皮をした、未来の前兆とも思われる獣たちが、接近する戦争、地震、諸王の殺害を待っていたとか。--「調停者の鉤爪」第17章

一行は迷路のように入り組んだ水路を探し回った末についに食人鬼に遭遇し、激しい砲撃戦の末にこれを倒すことに成功します。ノクチュラ姫に教わった通り、食人鬼の指から切り取った海図によって迷路から抜け出した一行は、姫と<穀物の乙女>たちを連れてめでたく魔法使いの町に凱旋します。ところが食人鬼との戦いの際に燃やしたタールの煙で船の帆が黒く汚れていたため、自分の息子が死んだと思った学生は悲観して身を投げて死にます。

円環の廃墟

この物語はこれ単体で読んでも十分おもしろいものですが、当然ながら様々な作品からの引用に満ちています。まず、学生が夢から若者を肉化させる冒頭の部分については、ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges)の短編「円環の廃墟」がもとになっていると思われます。

彼の望みは、一人の人間を夢みることだった。つまり、細部まで完全なかたちでそれを夢見て、現実へと押しだすことだった。彼の心は、この神秘的な計画ですっかり占められていた。--「円環の廃墟」(ホルヘ・ルイス・ボルヘス作、鼓直訳、岩波文庫「伝奇集」72ページ)

ボルヘスの作品における夢見る男は、教室にいる学生たちを夢見て、その中のひとりを肉化しようと試みますが、ウルフの作品では、逆に学生が夢を見て若者を肉化させるという倒置した関係にあります。この「夢から創りだされた人間」とは、神殿奴隷の創りだしたマルルビウス師のアクアストル、あるいは昔の機械が人間の伴侶として創った存在と同じものかもしれません。

わたしは師匠マルルビウスであり、トリスキールはトリスキールだ。その機械がおまえの記憶の中を捜して、われわれを見つけたのだ。おまえの心の中のわれわれの命は、セクラやもとの独裁者の命ほど完全なものではないが、それでもわれわれはここにおり、おまえが生きている限り、生きつづけるのだ。しかし、われわれは機械のエネルギーによって、物質界に維持されている。そして、その到達範囲はほんの数千年ほどだ。--「独裁者の城塞」第31章

また「円環の廃墟」の最後の部分で魔術師は、自分もまた誰か別のものによって夢見てつくられた存在であることに気がつきますが、これはシリーズ第5作の "The Urth of the New Sun" の主題と密接に関わっています。また<円環の廃墟>自体もアプ・プンチャウの<石の町>に影響を与えていそうです。他にもバルダンダーズの名が「幻獣辞典」からとられているように、ボルヘスの影響はいろいろありそうですね。そもそもボルヘスは<共和国>のある(?)アルゼンチンの作家ですし。

テーセウス

次に気がつくのは、ギリシア神話のテーセウスの冒険でしょう。クレーテーの王ミーノースは、王子がアテーナイで殺されたことに怒り、九年ごとに貢物として七人の少年と七人の少女をクレーテー島に送ることを要求します。貢物の少年少女は、ミーノース王の妃パーシパエーが牡牛との間に生んだ牛頭の怪物ミーノータウロスへの生贄とされるのです。アテーナイの王アイゲウスの子テーセウスはこれを知ると、一行に加わってクレーテー島に向かいます。ミーノース王の王女アリアドネーはテーセウスに恋し、迷宮の中で彼が道に迷わぬよう麻球を渡します。テーセウスはミーノータウロスを倒し、アリアドネーの麻球によって迷宮から脱出し、めでたく若者たちを連れてアテーナイに帰還しますが、うっかりテーセウスの死を意味する黒い帆を張ったままだったので、アイゲウス王は悲観して身を投げます。

この二つの物語の間にはテーセウス=夢から肉化した若者、アイゲウス王=学生、ミーノータウロス=食人鬼、アリアドネー=ノクチュラ、クレーテー島の迷宮=食人鬼の島の迷路、という関係が成り立ちます。もっとも食人鬼については、自身が迷路を造ったわけですから、同時にミーノース王でありかつダイダロスでもあるわけですが。一方相違点も多くあります。例えば、ギリシア神話でではテーセウスは七人の少年と七人の少女の一行に混じってクレーテーに向かいますが、「学生とその息子の物語」では生贄にされるのは全員が娘で、夢から肉化した若者は、魔法使いの町の若者たちを集めて娘たち奪還の旅に出ます。またテーセウスは帰路ナクソス島に立ち寄る以外は、まっすぐにアテーナイとクレーテーを往復しますが、夢から肉化した若者の一行は、食人鬼の島、およびその行き帰りにさまざまな冒険をします。このあたりは、テーセウスというよりは、イアーソーンとアルゴーナウタイの金羊をめぐる冒険、およびトロイアからイタケーまでのオデュッセウスの冒険の影響が強いのかもしれません。

エレボス

ノクチュラ姫は食人鬼と<夜>の間に生まれたものですが、こちらはギリシア神話では、オリュンポスの神々以前の創世神話中の、<カオス>から生まれた「幽冥界」<エレボス>(!)と「夜」<ニュクス>に相当します。すなわち食人鬼とは実はエレボス、またはその同類となります。ハルヴァードの物語の中にもあるように、エレボスは(そしておそらくアバイアも)娘たちをさらって自分たちの奴隷にするのでしょう。

一年たった。エレボスの船が一艘、霧の中から現われて攻めてきた。--「独裁者の城塞」第7章

一方、以下の部分からは、ノクチュラの母<夜>がウールスの外の世界からやって来たのだと考えられます。

「なぜなら、あなたの目には悲しみがなく、その目の中の光はウールスのものではないからです」--「調停者の鉤爪」第17章

これは、エレボスやアバイアなどの生物が、オリュンポスの神々以前の神々、あるいはティーターン神族に由来することを意味するのかもしれません。

対応関係

学生とその息子の物語テーセウス伝説ギリシア創世神話
夢から肉化した若者テーセウス 
学生アイゲウス王 
食人鬼ミーノータウロス
(ミーノース王/ダイダロス)
エレボス
ノクチュラアリアドネー 
 ニュクス
食人鬼の島の迷路クレーテーの迷宮 
穀物の乙女七人の少年と七人の少女 

穀物の乙女

彼女らの金髪とその緑色のファイユのために――また、魔法使いには、彼女らが穀物のように刈り取られるように思われるので――彼女らは "穀物の乙女" と呼ばれた。--「調停者の鉤爪」第17章

<穀物の乙女>は英語では "Corn Maidens" ですが、この描写からすると、<穀物の乙女>より<トウモロコシの乙女>の方が近いかもしれません。北米南西部のプエブロ族やナバホ族の神話には<トウモロコシの乙女>と呼ばれる女神が登場しますが、これは何か関係があるのでしょうか?

南北戦争

(以下は flynn さんから掲示板に頂いた情報に基づいています)ギリシア神話を模した物語であるにもかかわらず、夢から肉化した若者の船と食人鬼とはなぜか砲艦射撃で戦闘します。どうやらこれは史上最初の装甲艦同士の戦闘である、南北戦争のハンプトン・ローズの海戦における、北軍の装甲艦「モニター」と南軍の装甲艦「バージニア」(旧名「メリマック」)の戦いに則っているのだそうです。

文中のギリシア神話、および登場人物名は呉茂一著「ギリシア神話」(新潮文庫)を参考にさせて頂きました。

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