Last Updated:
12/01/2002
ウールスの世界の宗教における創造神。"Increate" とは「他のものによって創造されず、最初から存在する」との意味です。神をあらわす言葉として他に「万物主(パンクリエーター)」「アペイロン」「創造神(デミウルゴス)」「慰め主(パラクリート)」なども用いられますが、これらは絶対神である自存神の別の名前、もしくは別の属性をあらわすものと思われます。
自存神は万物の秩序を維持される。そして神学者は、光は彼の影だという。とすると、暗闇の中では秩序はほんの少ししか進展せず、花は、春の光によってただの泥の中から空中に飛び出してくるように、無から少女の指のなかに生じることもあるにちがいない、といえるのではないか?おそらく、夜がわれわれの目をふさぐと、秩序はわれわれが信じる以上に減少するのだ。おそらく、われわれが暗闇と感じるのは、実はこの秩序の欠如なのであって、われわれの幻惑された目――それは自力では成就できない秩序を、光によって与えられる――の前に立ち現われる暗黒、つまり、(海のような)エネルギーの波の放縦な乱れ、(畑のような)エネルギーの様々なフィールドを、現実の世界として感じるのだろう。--「拷問者の影」第24章
自存神はウールスの世界、少なくとも<共和国>において一般的に信仰されている神のようです。それはあたかもキリスト教の神のように、あるいはストア学派の<ロゴス>のようにあまねく遍在し、世界を形作り、万物の秩序を維持するものです。その名前が意味するように、自存神の前には存在はなく、全てのものは自存神が創りだしたものです。
この棘は神聖な<鉤爪>だ。なぜなら、すべての棘は神聖な<鉤爪>なのだから--「独裁者の城塞」第31章
このような「絶対的な存在=一者からあらゆるものが流出し、下位のものは上位のものの姿をそのうちに含む」という考え方は新プラトン主義の特徴ですが、同時に新プラトン主義に影響を与えたギリシア哲学やエジプトの神秘学、さらに新プラトン主義の影響を受けたキリスト教神学や、ルネサンス以降の観念論などにも通じる、西洋の神秘主義の典型的な思想の一つです。ところが<新しい太陽の書>における神秘主義は、それが純然たる神秘主義なのか、それともSF的な現実(?)世界なのかどちらともとれるように描かれています。
ほかの宇宙がすべてその影だという真の宇宙があって、そこに遍在している一つの力があると、わたしは知っていた。この力についてのわたしの概念は、つきつめて分析すれば、オアンネスと同様に笑うべきもの(であり、真剣なもの)であるとわかっていた。わたしは<鉤爪>がその力のものだと、つまり自存神のものだと、知っていた。そして、自存神のものだと自分が知っているのは<鉤爪>だけだと、世界のあらゆる祭壇や祭服の中で、自存神のものだと自分が知っているのは<鉤爪>だけだと、感じていた。--「警士の剣」第31章
この部分における<真の宇宙>とは、創造神の住まう高位の宇宙であるともとれますし、一方では通常の宇宙の外側にある、<神殿奴隷>の主人の住む宇宙<イエソド>を指すとも解釈できます。また<神殿奴隷>から、その主人である<神殿書記>、さらに上位に存在する<聖なるもの>(これは自存神であると思われます)に至る階梯にしても、宗教的に解釈するならば、キリスト教的な神から天使の九階級にいたる階層秩序ともとれます。一方SFとして読むならば、なにやらブリンの<知性化シリーズ>を思わせる(といってもこちらの方が先の書かれていますが)、超高度な科学を持つ種族による他の種族の教化の物語です。ウルフ自身は熱心なカトリック教徒であり、また<新しい太陽の書>には明らかにキリスト教的な主題があちこちに存在しますが、この物語のどこまでを宗教的に解釈するべきかというのは、ファンの間でも論争があるようです。おそらくウルフは、完全に宗教的な物語としても、また宗教を排したSF・ファンタジーとしても、同様に機能する物語を創作する、という文学的な実験として<新しい太陽の書>を書いたのではないかと思います。
あの茶色の本に、二人の神秘家の対話がのっていた。そこでは一人がこう論じている。文化は論理的かつ正当な自存神の想像力の所産であって、彼の約束と脅しを成就するために内的整合性によって縛られていると。もし、これが正しいとすると、今やわれわれは必ず滅びるだろうし、あれほど大勢の者が抵抗するために死んでいる北からの侵略は、すでに腐っている木を倒す風にすぎないと、わたしは思う。--「拷問者の影」第30章
ウールスの世界における宗教は、きわめて終末論的な色彩が強いものです。そこではウールスとその人々は、過去に犯した過ちのために裁かれ、滅び去るべきものとされています(このあたりはシルヴァーバーグの「夜の翼」の影響があるようです)。これは過去の星間帝国の時代において、宇宙に災厄をもたらし、それがために罰を受け、太陽は内部のブラックホールのせいで死にかけ、科学技術もエネルギーも失った現実のウールスの姿をあらわしています。従って<新しい太陽の書>とは、終末論がそのまま現実となった世界を描いた黙示文学であるとも言えます。一方、再びウールスに蘇りをもたらすものとして<調停者>=<新しい太陽>が信仰されています。<調停者>はかつて一度ウールスを訪れ、その再臨が待ち望まれていますが、その時にはウールスの古い世界は滅び去る運命にあります。
≪自存神よ≫聖職者が読んだ。≪ここで今命を失う者たちは、あなたの目から見れば、われわれ以上に邪悪な存在ではないと、われわれは承知しております。彼らの手は血にまみれておりますが、われわれの手も同様です≫(中略)
≪...あなたのご意志によって、その時に彼らの魂が浄化され、あなたの恩寵を得られますように。われわれは今日、彼らと対決し、彼らの血を流しますが...≫(中略)
≪あなた、太陽を食らう黒い虫を殺す英雄よ。あなた、空があなたのためにカーテンのように分かれるお方よ。その息が、巨大なエレボスを、波の下を転げ回るアバイアとスキュラを縮こまらせる、あなた。最も遠方の森林の最小の種子の中にも、人の目の届かぬ暗黒の中に転がりこんだ種子の中にさえも、等しく住んでおられる、あなたよ≫(中略)
≪...慈悲心を持たぬ者に、慈悲を垂れたまえ。我等に慈悲を垂れたまえ。今、慈悲心を失わんとしているわれらに、慈悲を垂れたまえ≫--「調停者の鉤爪」第4章
ここでは自存神が「太陽を食らう黒い虫を殺す英雄」と称されています。これは<新しい太陽>が自存神の一つの顕れだということを意味します。ここからもキリスト教における<父なる神>と<子なるキリスト>の関係との類似が見てとれます。一方、"The Urth of the New Sun" において<新しい太陽>をもたらすのは、あくまでも形而下学的な力であり、宗教とSFとの多義性はシリーズ全編にわたって保たれます。
聖キャサリンの日に職人に昇格する前、わたしはパリーモン師とグルロウズ師から組合のいろいろな秘密を明かされたものだが、この自叙伝を書きはじめた時には、それらの秘密をたとえ少しでも漏らすつもりはなかった。しかし、今その一つをお話しようと思う。なぜなら、それを理解しなければ、わたしがこの夜にディウトルナの湖上でしたことが、理解できないからである。その秘密とは、われわれ拷問者は服従する、というだけのことである。高く積み重なったすべての統治体の中で――どんな物質的な塔よりもはるかに高い、<鐘楼>よりも、ネッソスの<壁>よりも、テュポーン山よりも高い生業のピラミッドの中で――独裁者の<不死鳥の玉座>から、最も不名誉な職業の者、またその下働きをしている最も卑しい使用人にまで及んでいるピラミッドの中で――われわれは唯一の無傷の石なのである。想像もできないようなことを従順に実行する意志がなければ、だれも真に服従しているとはいえない。そして、われわれ以外に、想像もできないようなことをする者はいないのである。
キャサリンの首をはねた時に、みずからすすんで独裁者に与えたものを、どうして自存神に断ることができようか?--「警士の剣」第31章
セヴェリアンは<新しい太陽の書>の物語の中で、さまざまなものを裏切っていきます。そして最後に残るのは自存神に対する絶対的な服従だけです。これはセヴェリアン自身の信仰の純化の過程とも考えられますし、同時に自分自身がより<神>的な存在に変容していく、<新しい太陽>をもたらしてウールスを再生させるには必須の過程だとも考えられます。セヴェリアンの絶対記憶は、こういったセヴェリアンに負わされた役割と関連しているのだと思います。
「被創造物には、それぞれ必ず創造主がいるというのが、自然の、そして、自然より高いものの掟です。しかし、バルダンダーズは彼自身の創造物なのです。彼は彼自身の背後に立って、ほかのわれわれと自存神を結んでいる絆を、自分自身から切り離したのです」--「独裁者の城塞」第36章
ところで、本来あらゆる事物は自存神に由来するはずのものなのに、その自存神との絆を意図的に断ち切ることのできる存在があります。このタロス博士の言葉が、単なる言葉のあやなのか、文字通りの事実なのかが不明ですが、ともかくバルダンダーズは(あるいはアバイアやエレボスも)自らを創造することにより、自存神や<新しい太陽>たるセヴェリアンと同等の位置に立とうとするものです。これは例えば<キリスト>たるセヴェリアンに対するアンチキリストともいうべきものでしょうか?
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