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03/02/2003
タロス博士の劇団に属する美人女優。もともとはネッソスの町のとあるカフェの女給でしたが、タロス博士の手によって変身を遂げ、絶世の美女として生まれかわります。
ぼさぼさの髪をした痩せた女給が、バルダンダーズのための病人用の粥と、私のためのパンと果物と、そしてタロス博士のための練り粉菓子を運んできた。「なんと素敵な娘さんだ!」彼がいった。
彼女は彼に笑顔を見せた。
「腰かけないか? 他に客もないようだし」
彼女は調理場の方をちらと見てから、肩をすくめて、椅子を引き寄せた。(中略)
「われわれは清純派の女優を求めている。きみが望むなら、その地位を提供してもよい。しかし、今一緒に来なければ駄目だ――無駄にする時間はない。そして、この方面には二度とやってこないからね」
「わたし、女優になったって、綺麗にはならないよ」
「女優として、欲しいんだから、われわれが綺麗にしてやる。それもわたしの魔力の一つなんだ」--「拷問者の影」第16章
タロス博士がセヴェリアンたち一行を配役として公演する「天地創造と終末」は、きわめて象徴性の高い一種の宗教劇です。そこでセヴェリアンが演じるのは<死>、ドルカスは<純潔>、バルダンダーズは<力><勇気><悪徳>、タロス博士自身は<偽り>と<謎>、そして美しく生まれかわったジョレンタは<愛>と<美>を演じることになります。
左側には、ほとんど全裸の、今までに見たこともないような官能的な美女が立っていた。
「役者がそろった」その小さな男が大声で早口にいっていた。「役者がそろった。諸君は何が欲しい? 愛と美か?」彼は女を指さした。--「拷問者の影」第32章
<愛>と<美>の象徴であり、また実際に絶世の美女であるはずのジョレンタですが、セヴェリアンは彼女に強く惹かれながらも、愛すべき、あるいは人間的な関係を持つ相手とはどうしても見なすことができません。それは例えて言うと、肉体を持った最高級のピンナップ・ガール、あるいは夢の中に登場する高級売春婦といったようなもののようです。
彼女はうなずいて小川を探しにいった。少なくとも、彼女の姿が気晴らしになった。わたしは思わず、遠ざかっていく彼女の姿と、ドルカスのうつぶせになった姿を、見較べた。ジョレンタの美しさは完全だった。これまでに見た他のどんな女も、その足もとにも寄れなかった――それに較べると、威厳のあるつんと澄ましたセクラは、ごつごつして男っぽい感じだし、繊細な金髪のドルカスは、昔、<時の広間>で出逢った忘れられた少女ヴァレリアと同様に、貧弱に子供っぽく感じられた。
しかし、私はアギアには惹かれたが、彼女には惹かれなかった。セクラは愛したが、彼女は愛さなかった。また、ドルカスとわたしの間に生じたような親密な思考と感覚を欲しもしなかったし、それが可能だとも思われなかった。彼女を見るすべての男がそうであるように、わたしは彼女を求めたが、それは絵の中の女を欲するのと同じだった。そして(前の夜に舞台でそうしたように)感心して彼女を眺めている間にも、静止している時にはあれほど優雅に見えるのに、歩く姿はなんとぶざまなのだろうと思わずにはいられなかった。互い違いに擦れあうはちきれそうな太股。その感嘆すべき肉体は彼女にどっしりとした重みを与え、普通の女が腹に胎児を抱えて歩くように、彼女は艶かしさを抱えて歩くのであった。彼女がまつげに綺麗な水滴を光らせ、虹のカーブのように清らかで非の打ちどころのない顔をして低林から戻ってきても、それでもなお、わたしは自分がほとんど孤独であるように感じた。--「拷問者の影」第34章
またジョレンタ自身も、自分がそのような存在であることを十分に自覚しています。彼女は相手の欲望を極限まで刺激して自分の肉体(だけ)を欲するように仕向け、それによって相手を支配することを欲しているかのようです。
「わたしはどんな男でも欲しがらせることができるのよ。だから、彼だって、その人の夢がわたしたちの現実であり、その人の記憶がわたしたちの歴史である、上御一人である独裁者だって、去勢されていようといまいと、わたしを欲しがるのよ。あんたはわたし以外の女を欲しいと思ったことがあるでしょう? 女をひどく欲しいと思ったでしょう?」
わたしはそのとおりだと認めた。
「だから、他の女を欲しがったのと同様に、あんたはわたしを欲しいと思うのよ」彼女は向きを変えて、また歩きだした。いつものように、少し足を引きずっていたが、自分自身の議論でいくらか元気が出たようであった。「でも、わたしはあらゆる男をこわばらせ、あらゆる女をむずむずさせるのよ。女を決して愛したことのない女が、わたしを愛したがるのよ――これ、あんた知ってた?」--「調停者の鉤爪」第23章
このような描写は、中世のキリスト教をはじめ多くの宗教が女性の性欲を否定してきた論理、あるいは恐怖心を連想させます。ジョレンタ自身が「天地創造と終末」の中で演じたジャハイ、つまり人類最初の男性を誘惑して、この世にセックスと「穢れ」をもたらしたとされる女も、同様に性欲を持つ女性に対する恐怖心の生み出したもののようです。このようにジョレンタは実生活でも「売春婦としての美女」の役割を演じ(させられ?)ているわけですが、セヴェリアンはおそらくジョレンタの思惑通りに彼女を欲し、彼女の人間性を尊重することなく単なる肉欲の対象として彼女を扱うことになります。
それに較べると、ジョレンタの欲望は、欲しがられたいという欲望にすぎなかった。だから、わたしは、ヴァレリアの孤独を慰めてやりたいと思ったように、彼女の孤独を慰めてやりたいとは思わなかったし、また、ドルカスを保護してやりたいと思うように彼女を保護してやりたいとも思わなかった。逆に、彼女を辱め、罰してやりたいと思い、そのうぬぼれの鼻をへし折ってやりたいと思い、その目に涙をためさせ、また、逃げ出した幽霊を苦しめるために死人の髪を燃やすように、彼女の髪を引きむしってやりたいと思った。彼女は女性を同性愛者にすると豪語し、わたしを苦痛嗜好者に仕立てようとしていた。--「調停者の鉤爪」第23章
この言葉は「天地創造と終末」の中のジャハイの台詞と対応しています。
ジャハイ もう一度、警告する。そして、三度目はないよ。ぶつなら、命がけでおやり。
メシアンヌ どうするつもり? わたしを亡ぼすために悪鬼(エリニス)でも呼び出すのかね。そんなことができるなら、もうとっくにやっているだろうに。
ジャハイ もっと悪いことよ。もし、またあたしをぶったら、あんたはそれが楽しみになってくるんだよ。--「調停者の鉤爪」第24章
私の場合「新しい太陽の書」を読んでいて、時々違和感を感じる瞬間があるのですが、ここなどもその一例です。どういうことかというと、この物語はセヴェリアンの一人称で語られており、また通常彼はきわめて内省的に物語を語っているのに、このような場面(主に女性との性的な場面)においては、突如として内省を忘れ、欲望の虜になり、また相手の人間性への共感を持たないような反応をすることが不思議なのです。もちろんリアリティのある男性の登場人物が、時として理性をかなぐり捨てて欲望のおもむくままに行動する、ということ自体は全く問題ないのですが、ただそれがセヴェリアンという主人公の行動・思考様式とどう関わっているのか、なかなか一筋縄では理解できません。
やがて、わたしはジョレンタが眠っていることに腹が立ってきた。それで、オールを離し、クッションの上の彼女の横にひざまずいた。いかにも人工的ではあるが、彼女の寝顔には、起きている時には見たことのない、清らかさがあった。彼女にキスすると、その開いたか開かないくらいの大きな目が、アギアの目のように長く見え、その赤みがかった金髪が、ほとんど茶色に見えた。わたしは彼女の着物を解いた。厚いクッションに催眠剤でも仕こんであるのか、それとも、野天を歩いてきたただの疲れのためか、豊満な官能的な肉体の重みのせいか、彼女はなかば麻薬に酔ったような状態になっていた。その乳房を露わにすると、左右のそれぞれがほとんど彼女の頭くらいあった。そして、太股の間には、かえったばかりの雛がいるように見えた。
もとの場所に帰ってくると、誰もがわれわれがどこにいっていたか知っているようだった。もっとも、バルダンダーズが気にしているとは思えなかった。ドルカスは姿を隠して密かに泣いた。しばらくするとヒロインの微笑を浮かべて戻ってきたが、目は真っ赤になっていた。タロス博士は怒ったと同時に喜んだと思う。--「調停者の鉤爪」第23章
この場面はセヴェリアンが、ネッソスの<憐れみの門>で混乱の中はなればなれになってしまったドルカスと、やっとのことで再会を果たした直後のことです。セヴェリアンはドルカスと再会を喜びあいますが、ドルカスがタロス博士らと芝居の準備をしているわずかな合間を縫ってジョレンタと逢引をし、それがドルカスに知られてもさほど後悔しているとも見えません。セヴェリアン=拷問者=男性(人間)が他人に「苦痛」をもたらす存在であることは随所に示されていますが、この場面での彼の行動は、まさにドルカスに苦痛を与えること自体を目的にしていたのではないかとも思えます(仮にジョレンタに対する純然たる性欲のなせるわざならば、他にやりようはあったはずです)。
一つの解釈として、おそらくはセヴェリアンの不在の間にジョレンタと性的関係にあったと思われるドルカスを罰したいという、意識的・無意識的な気持ちがあったのかもしれません。またセヴェリアンは、ドルカスを愛しながらも同時に憎んでいたのではないかと思われる記述が随所にみられます。一方、この直前のセヴェリアンとドルカスの会話に次のようなものがあります。
「バルダンダーズは正しいわ。タロス博士は他人に嘘とわかるような嘘はつかないから。あなたを "死" と呼ぶのは、嘘ではなくて、それは……えーと……」
「隠喩だね」わたしは助け舟を出した。
「でも、危険な、悪い隠喩よ。しかも、あなたに対して嘘の効果を狙ったものよ。(中略)彼は出会ったすべての人を操作して、自分の意図で変化させたいのよ」--「調停者の鉤爪」第22章
セヴェリアンとジョレンタとの秘め事を知ったタロス博士が「怒ったと同時に喜んだ」のは、ことがタロス博士の思惑通りに起きたことを示唆します。そうするとタロス博士はセヴェリアンに、<純潔>であるドルカスを裏切り、<死>あるいは苦痛の権化としての役割を果たさせることを密かに目論んでいたのかもしれません。あるいはそれは「天地創造と終末」で演じられるウールスの終末物語を、現実の世界においても役者たちに演じさせるという意図かもしれません。
登場人物の中でもっとも聡明な人間であるドルカスは、タロス博士の意図を見抜きセヴェリアンに警告を与えます。実際彼女自身、タロス博士に<純潔>(Innocence)と名指されたにもかかわらず、人間的な懊悩をかかえて思い悩む存在です。ご存知のようにドルカスは過去において結婚して子供を産んだこともありますが、セヴェリアンに対しても欲望を隠すことなく接し、<純潔>というような象徴で片付けられることを拒絶します。
ドルカスはこのすべてを話しながら、こちらににじり寄ってきた。わたしは彼女がセックスを求めていると知り、抱いてやった。焚火の反対側でジョレンタが眠っているかどうか、よくわからなかった。実際、時々、もぞもぞ動いていた。豊満な尻、細い腰、波打つ頭髪のために、彼女そのものが身をくねらせる蛇のように見えた。ドルカスはその小さな、痛々しいほど綺麗な顔をわたしの顔に近づけた。彼女にキスすると、彼女が欲望に震えながら、体を押しつけてくるのがわかった。
「とても寒いわ」彼女はささやいた。--「調停者の鉤爪」第27章
なお上の引用部分でジョレンタが「蛇のように見えた」というありますが、「蛇」とはキリスト教における邪悪の象徴であり、おそらくジャハイとしてのジョレンタに繋がると同時に、「新しい太陽の書」の中では、クーマイの巫女やカモウナなどの神殿奴隷や、ウロボロスと結びついています。
愛と性欲は従兄弟にすぎないといわれる。そして、ジョレンタの弛緩した腕を首に回して歩くまで、わたしはそのとおりだと思っていた。だが、実はそうではなかった。むしろ、女性への愛は、ヴァレリアやセクラやアギアの夢や、そしてドルカスやジョレンタや、ハート型の顔で鳩のような優しい声で話すヴォダルスの情婦の夢を基にして、わたし自身が育んできた女性の理想像の、陰の部分だったのだ。それで、こうして砂糖黍の壁の間をとぼとぼ歩いていきながら、性欲が逃げ去り、ジョレンタを憐れみの情をもってしか見ることができないようになると、今まで自分が好きだったのは、彼女のしつこい、薔薇色の赤みのさした肉体と、ぎごちなくもあり優雅でもあるその動きだけだと信じていたけれども、やはり、自分は彼女を愛しているのだと、悟ったのであった。--「調停者の鉤爪」第28章
結局ジョレンタはタロス博士と離れるとともに施術の効果が失われ、人工的に造られた容色も衰え、最後には死に至ることになります。これはタロス博士の支持した<純潔>という象徴にあくまでも抵抗して苦悩を自ら選んだドルカスが生き残り、象徴として生きることを選択したジョレンタは、脚本家がいなくなるとともに生きる道を閉ざされた、ということでしょう。一方ジョレンタに対して肉欲しか感じていないと思っていたセヴェリアンは、彼女がもとの姿に戻った時にはじめて、やはり彼女を愛していたと気づきます。まあそれはそれで良いのですが、上の引用部分の「女性への愛は(中略)わたし自身が育んできた女性の理想像の、陰の部分だったのだ」(原文では "...the love of women was the dark side of a feminine ideal I had nourished for myself...")とはいったい何を意味するのでしょう。セヴェリアンは手記の中でしばしば、自分の生涯で出会った女性たちの回想に耽りますが、それなどまさに女性の理想像を追い求めている、ということなのでしょうか。もしそうだとしたら、ちょっとなんだかな、という気がしないでもありません。
ただし気をつけなければならないのは、ウルフはこのようなセヴェリアンのある意味幼稚な女性観を、間違いなく意識的に描写しているだろうということです。忘れてならないのは、拷問者という階級が、周りの人間から蔑まれ、ある意味社会の最下層に位置するということです。この物語は拷問者であるセヴェリアンの一人称で書かれているがゆえに、読者は「生まれは卑しいけれども内面は高貴なアンチ・ヒーロー」としての主人公を無意識に想定してしまうのではないでしょうか(少なくとも私はそうでした)。しかしながら、ジョレンタやドルカスに対するセヴェリアンの行いは、この物語の主人公が内面性も含めて決して高貴な存在でない、どちらかといえば問題のある人間だということを、ウルフが強調しているように思われます。もっとも拷問者組合のような場所で育てられた男性が、女性に対して最初からフェミニスト的な共感を持っているとしたら、かえってリアリティがないかもしれません。
それではセヴェリアンはどのような理由で(物語にリアリティを与える以外の理由で)このように不完全な人間として描かれているのでしょう。仮説ですが、それはセヴェリアンが「新しい太陽の書」五部作において<救世主>の役割を負わされていることと関係しているのだと思います。「カワウソの城」所収の "Helioscope" というエッセイの中でウルフは次のように述べています。
苦痛と死の擬人化としての「暗い」登場人物を描きたかった。イエス・キリストはしばしば「大工」と称されるが、イエスの磔に用いられた素材が木材、釘、金槌であることから、イエスの処刑人もまたイエス同様に「大工」なのだと考えられる。またイエスは「拷問による苦痛」を知っていたと同様に「拷問者であることの苦痛」もまた知っていたはずだ。--"Helioscope" pp.218-219 in "Castle of Days" からの要約
キリスト教における救済とは「本来もっとも高みにあり、自分自身では何の罪も持たないはずのイエスが、最低の地位に落とされ、拷問と苦痛を受けた末に処刑され、そのことによって人々の罪を贖う」というものです(私自身キリスト教徒でもなく、キリスト教についても通り一遍の知識しかありませんので、もし間違っていたらご指摘ください)。一方「新しい太陽の書」におけるセヴェリアンは「もともと最低の地位の拷問者の出身であり、自身他人に拷問と苦痛を与え罪にまみれているセヴェリアンが、ウールスを救済する役割を負わされ、その過程で愛する人々を滅ぼさざるを得なくなる」という、イエスによる救済を反転させたものです。自身熱心なカトリック教徒であるウルフが、この論理の反転を、単なる思考実験として用いたのか、それともキリスト教的な信仰心の別の形態として意図したのかまではわかりませんし、作者の意図を推測すること自体はさほど重要ではないと思いますが、それでもやはり<救世主>としてのセヴェリアンというのは、興味深い題材です。
なお個人的にはジョレンタは「甘い生活」をはじめとするフェデリコ・フェリーニの映画に出演したスウェーデン人女優のアニタ・エクバーグのイメージです。「甘い生活」でもまさにそういった役柄でした。
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