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11/13/2005
反逆者ヴォダルスに与した疑いで捕らえられ、独裁者組合のもとで虜囚となった美しい女城主。ヴォダルスの情婦であるセアの腹違いの姉妹。
彼女は予想以上に背が高く、独房の中でまっすぐに立つことができないほどだった。その顔は、ハート型というよりもむしろ三角形で、ヴォダルスと一緒に共同墓地にいた女を思い出させた。あのマントの頭巾を連想したのは、たぶん、目蓋に青い翳りのある大きいすみれ色の目と、そしてV字形を作って額からずっと下まで垂れ下がっている黒い毛髪のせいだろう。理由はともあれ、わたしはひと目で彼女に恋をしてしまった――少なくとも、愚かな少年が恋をするのと同じくらいに。しかし、事実わたしは愚かな少年だったので、それがわからなかった。--「拷問者の影」第7章
男ばかりの独裁者組合の中で育ったセヴェリアンにとって、一度だけ垣間見たセア以外で初めて見る高貴人の女性、それも若く美しい女城主を見て恋に落ちるのは無理からぬことです。しかもこの女性は、高貴な家柄でありながら、セヴェリアンたち拷問者の捕われ人であり、一切の自由を奪われ、おそらくは拷問されて処刑されるかもしれない運命にあるのです。一般の人々から恐れられ、差別されるセヴェリアンたちにとって、このような高貴な囚人を抱えるというのは格別の意味を持っています。
彼女は偉い偉い女城主であり、わたしは奴隷以下の存在だった(われわれの組合の職能を真に理解しない普通の人々の目から見れば、という意味だが)。しかし、時がたって、ドロッテが扉をどんどんと叩けば、立ち上がって牢獄を出て、すぐに黄昏のきれいな空気の中に上がるのはわたしであり、後に残って他の客人たちのうめき声や悲鳴を聞くのはセクラなのであった。--「拷問者の影」第8章
さらにセクラは、物語の冒頭でセヴェリアンが命を救い、それによって自らの運命を決することになる反逆者ヴォダルスと関係があり、またヴォダルスの愛人であるセアと腹違いの姉妹であることで、セヴェリアンにとって決定的な意味を持つ女性となります。
セアこそ、わたしの初恋の人だった。また彼女は、わたしが救った人のものだったから、わたしは彼女を崇拝してもいた。最初にセクラを愛したのは、彼女がセアを思い出させるからにほかならなかった。今(秋が去り、冬がきて、春がきて、年の終わりであると同時に始まりでもある夏がふたたびきて)わたしはふたたびセアを愛した――なぜなら、彼女はセクラを思い出させるから。--「調停者の鉤爪」第10章
まだ女性経験を持たないセヴェリアンがセクラの方のとりことなり、組合にとって不名誉な事態(具体的にはセヴェリアンがセクラを妊娠させて、必要な拷問がおこなえなくなること)になることを恐れたグルロウズ師は、セヴェリアンよりも一足先に職人となったロッシュに命じて、セヴェリアンを売春宿に連れて行かせます。そこで手っ取り早く筆おろしさせることによって、セヴェリアンがセクラにのぼせ上がることを避けようというものです。
しかしセヴェリアンとロッシュが訪れた売春宿<紺碧の家>は、単なる売春宿ではなく、セヴェリアンはセクラの方と瓜二つの売春婦(セクラの方のカーイビット)を抱くことになります。しかし、グルロウズ師の思惑に反してセヴェリアンは<紺碧の家>を二度と訪れることはなく、逆にセクラと肉体関係を重ねていきます。
心の中のセクラから、性愛的遊興と男女の歓楽の手ほどきをしてくれた偽のセクラの印象を拭い去るのに、何日もかかった。もしかしたら、これはグルロウズ師の意図と逆の効果を持ったかもしれない。しかし、自分はそうは思わない。彼女を自由に楽しんだ印象が記憶に新しい時ほど、あの不幸な女性への愛情が薄れたことはなかったと信じる。自分の愛が真実でないことが次第に明らかになるにつれて、わたしはそれを正しいものに変えたいという気持ちに駆られ、また(当時はほとんど意識していなかったが)彼女を通じて、彼女が象徴する古代の知識と特権の世界に引かれていったのであった。--「拷問者の影」第10章
上記引用は、セヴェリアンが<紺碧の家>を訪れた次の章の冒頭部分ですが、セヴェリアンのセクラの方に対する「愛」の形を示しているにもかかわらず、ちょっと何を書いてあるのか分かり難い文章になっています。「偽のセクラ」というのは<紺碧の家>の売春婦でしょうが、「彼女を自由に楽しんだ」および「不幸な女性」とは誰を指すのでしょうか。
この部分の原文は次のようなものです。
I believe I was never less inclined to love the unfortunate woman than when I carried in my memory the recent impressions of having enjoyed her freely
"the unfortunate woman" とその後の "enjoyed her" は同じ女性でしょうから、普通に考えてこれはセクラのことでしょう。そうすると「セクラの肉体を思う存分楽しんだ記憶が鮮明な時ほど、この不幸な女性(セクラ)への愛を意識しない傾向があったと思う」でしょうか。そうだとすると、少なくともこの時点でのセヴェリアンのセクラの方への「愛」とは、肉体的な性欲と対立する概念であると言えるかもしれません。(ところでセヴェリアンが「完全記憶」を持っているのであれば、「記憶が鮮明」というのは何を意味するのでしょうか。セクラの女体をいつも鮮明に記憶しているならば、セヴェリアンがセクラに抱く感情は何なのでしょうか、それとも「完全記憶」とは実は不完全なものなのか)
一方以下に引用する部分も、セヴェリアンにとっての「愛」の概念を示すものです。
もしわれわれがある女を欲し、その女が従順に身を任せれば、われわれはすぐに彼女を愛するようになる(実際、これはセクラに対するわたしの愛の最初の土台だった)、そして、もしわれわれが彼女を欲すれば、彼女は少なくとも想像の中では常に身を任せるから、ある程度の愛の要素は常に存在することになる。一方、もしわれわれが彼女を愛すれば、われわれはすぐに彼女を欲するようになる。魅力というものは、女が所有すべき属性の一つであり、また、われわれは彼女にそれがまったくないとは考えがたいからである。--「拷問者の影」第26章
ここでは、第10章の引用部分と異なり、「愛」と「性欲」とが不可分のものと考えられているように思います。別に筆者も異性に対する「愛」と「性欲」が全くの別物であるとは思いませんし、この二つは多くの場合、一方がもう一方に容易に転化しうるものだと思います。それにしてもセヴェリアンは、その後の多くの女性との関係を見ても、(第10章引用部分とは逆に)そもそも肉欲を伴わない「愛」というものが存在しうることに気がついていないような節があります。例えば「調停者の鉤爪」第23章でセヴェリアンは、「愛する」はずのドルカスとやっとの思いで再会したばかりなのに、ドルカスが芝居の準備をして働いているすきに美貌のジョレンタと肉体関係を持ち、ドルカスがそれに気がついて涙を流しても気にも留めません。
もっともよく考えてみれば、セヴェリアンは、それまでほとんど女性と話したこともなかったにもかかわらず、突然自分の意のままになる絶世の美女を手に入れた思春期の少年であるわけで、自分にとっての「愛」と「性欲」とが混乱していても不思議ではありません。にもかかわらず、<新しい太陽の書>の主人公であるセヴェリアンは、なんとなく哲学的な思索と宗教的な使命感を持つ高尚な人格であるような錯覚を読者に与えるように思います。おそらくこれは作者のジーン・ウルフが読者に対して仕掛けた、数多くの罠の一つなのではないかと思います。いずれにしてもセヴェリアンにとっての「女性に対する愛」というものは一筋縄ではいかないようなので、別途考察が必要でしょう。
セヴェリアンにとって、セクラという存在がいったいどのようなものであったのか、あるいはセクラに対して感じていた感情がいかなるものなのか、以下の引用部分にもさりげなく示されているようです。
もしセクラが、今にしてわかったように、わたし自身がふさわしくないと感じていた愛の象徴だったとしたら、彼女の象徴力は、わたしが彼女の独房から出て扉を閉めた時に消滅したのだろうか?--「警士の剣」第30章
何気なく書かれているため見落としてしまいそうになりますが、「わたし自身がふさわしくないと感じていた愛」とは何でしょうか。原文では次のように記されています。
If Thecla had symbolized love of which I felt myself unworthy, as I know now that she did, then did her symbolic force disappear when I locked the door of her cell behind me?
セヴェリアンは自分自身が「愛」に相応しくないと考えており、セクラはそのような「愛」を象徴していたのではないか、つまりセヴェリアンはそのような「象徴」としてのセクラを「愛した」のではないかと自問します。「拷問者の影」第1章で、ヴォダルスのコインという記号を受け取ることによって、その記号の象徴に支配されるように、セヴェリアンの女性に対する「愛」と彼の行動は、「愛」という言葉の持つ象徴力によって支配されているかのようです。
セヴェリアンが愛するセクラを救うことができなかった真の理由についても、注意が必要です。
もしわたしが、彼女と一緒に読んだロマンスの中のヒーローだったら、その晩のうちに当直の仲間の職人をやっつけるか、または薬を盛って、彼女を逃がしていただろうに。だがわたしはそういう人間ではないし、薬もなければ、キッチンから持ってきたナイフ以上の凶器も所持していなかった。
そして、もし真相を語れと言うなら、わたしの奥底の実態と、必死の試みとの間に、その朝――わたしの昇格の朝――に聞いたあの言葉が存在していた。セクラの方はわたしを "むしろ優しい子" といったのだ。そして、すでに成熟しているある部分は、たとえ自分がこれらの不利な条件に打ち勝ったとしても、やっぱり "むしろ優しい子" なのだろうと知った。その時には、それが問題だと思ったのだ。--「拷問者の影」第12章
もちろん当直の職人たちの目を盗んでセクラの方を救い出すことは、現時的にはほぼ不可能であったでしょう。しかし、セヴェリアンの心の奥底には、セクラに「むしろ優しい子」と呼ばれたことが引っかかります。
彼はわたしのために手紙を出してくれたのよ――ねえ、セヴェリアン? それに、彼はこの数日間、さようならと言い続けているわ。本当はむしろ優しい子なのにね、それなりに」--「拷問者の影」第12章
He's mailed letters for me--haven't you, Severian? And he's been saying goodby for these few days. He's really rather a sweet boy in his way.
微妙な違いですが、これは「本当はむしろ優しい子なのにね」というより、「とっても可愛い子なのよ」の方がニュアンスが伝わるように思います。セクラの方にとっては、新参者の囚人にお気に入りの少年を自慢するこの言葉が、セヴェリアンにとってはある種の侮辱と感じられたのではないかと思います。「とっても可愛い子」と呼ばれることは彼にとって大問題であり、結果的にセヴェリアンはナイフを差し入れて「愛する」セクラの方を死に至らしめることになります。
今は、わたしは自分の塔からずっと遠くまで旅をした経験があるが、それでも常にわれわれの組合のパターンが、あらゆる職業の社会において、(<絶対の家>のイナイア老の鏡の反復のように)無意識に反復されているのを知っている。だから、彼らもすべてわれわれと同じ拷問者なのだと知っている。獲物が狩人に抵抗するのは、われわれの客人がわれわれに対抗するのと同じである。買い手と売り手、共和国の敵と兵士、被支配者と支配者、男と女。みんな自分の亡ぼすものを愛している。--「拷問者の影」第4章
かくしてセヴェリアンの中では「性欲」と「愛」とが分かち難く結びついているのみならず、「愛するものを亡ぼす」という観念も固着することになります。
やがてセクラは<革命機>という名前の拷問器具にかけられることになります。この拷問は、自分自身の中から「最悪の敵」を引き出し、自分自身の手で自分自身を滅ぼすというものです。
「わたしは最悪の敵を見たように思ったわ。一種の悪魔をね。そして、それはわたしだったの」
(中略)
「でも、もっと悪いのよ。今はこの手が自分を盲目にしようとしているの。目蓋を引き裂こうとしているの。わたし、盲目になるのかしら?」--「拷問者の影」第12章
上記引用部分はセクラが<革命機>にかけられた当日のもので、その直後にセヴェリアンはセクラにナイフを渡し、彼女の自殺を助けることになります。従ってセクラが<拷問機>にかけられてから自殺をするまでには、たかだか数時間しかありません。その一方、セヴェリアンが囚われたアギルスとアギアに面会に行く場面には、次のような描写があります。
彼女はわたしに飛びかかり、目に爪を立てようとした。ちょうど、昔セクラが監禁と苦痛の想念に耐え切れなくなった時に、時々やったように。--「拷問者の影」第29章
ここでセヴェリアンに飛びかかるのはアギアですが、その仕草がちょうどセクラが「時々やったよう」なものであることに注意が必要です。「拷問者の影」の中には、<拷問機>にかけられた後のわずかな期間を除いては、セクラが苦痛に苛まれているような記載はほとんどありません。念のために原文をチェックすると以下のように記されています。
and she flew at me, clawing for my eyes as Thecla used sometimes to do when she could no longer bear the thoughts of imprisonment and pain.
"Thecla used sometimes to do" ですから確かに、セクラはかつて、かつ何度も、苦痛に耐え切れずにセヴェリアンに襲いかかるようなことがあったようです。またセクラが自殺してから上記場面までは二週間たらず(実際にはセヴェリアンはセクラの死後十日間独房に入れられ、開放されてから翌々日が上記場面なので、十二日間)しか経っていませんので、この回想が<革命機>にかけられた後のセクラの姿(だけ)を指すものとは考えにくいでしょう。
であるならば、セクラは拷問者組合の虜囚となっていた間に、苦痛のあまりセヴェリアンに襲いかかるようなことが何度もあったということでしょう。「新しい太陽の書」に登場するセクラの姿は、実際に拷問にかけられる時までは、どちらかと言うと冷静で、時にはリラックスしたものであり、読者に与えるイメージは全く異なったものです。リラックスしてセヴェリアン相手に哲学論議を交わすセクラと、苦痛のあまりセヴェリアンに襲いかかる姿とは、もちろん矛盾するものではなく、そのどちらもがセクラの姿であるはずです。にもかかわらず、その片方の姿は、絶対記憶を有するはずのセヴェリアンの手記からは、奇妙に抹消されているということでしょうか。セヴェリアンの絶対記憶というものが、実は都合の悪い部分は記憶に残っていないのか、あるいは話者であるセヴェリアンが意識的に手記から隠蔽しているのか。
もちろん相反する描写が、単純に作者であるウルフのミスという可能性も皆無ではありません。しかし上記の「セクラが監禁と苦痛の想念に耐え切れなくなった時に、時々やったように」という部分は、セクラの登場しない場面での、アギアの振る舞いに関する直喩です。つまりここは、もともとセクラのことに触れる必要のない場面なので、作者ウルフは、おそらくはかなり意識的に、それまでとは異なるセクラの姿をヒントとして挿入したという気がします。そもそもこのシーンでセヴェリアンは、アギアとアギルスの間に強い緊張関係があるものなので、さりげなく挿入されたセクラの別の姿は、読者に深く意識されずに忘れ去られるように仕組まれているのかもしれません。それであるならば、これはセヴェリアンの絶対記憶に基づく手記が頼りないものであること、またそこには注意深く読まないと見えてこない別の真実が隠されていることを示す伏線の一つであるのかもしれません。
さて、ヴォダルスのもとでセヴェリアンは、アルザボから採られた薬の影響下でセクラの死体を食べ、彼女の意識を自分の中に復活させることになります。
ちょうど絶望した時に――彼女はそこに、ちょうどメロディーが小屋を満たすように、いた。わたしは子供で、彼女と一緒にアーキス川のほとりを駆けていた。わたしはその暗い湖に囲まれたとても古い別荘を知った。(中略)これまでに拷問者の虜になって、独房を見たり、鞭を感じたりしたことがない人間にとって、死ぬということがどういうことか、死とはどんなものか、わたしは知った。--「調停者の鉤爪」第11章
その後、セクラの方の意識はセヴェリアンの中でふたたび生き始めるようになります。セヴェリアン自身が意識していない時に、セクラの意識が頻繁に取って代わります。
わたしははっとして目覚め、ぞっとした。だが、眠りを妨げた物音は、廊下のずっと先のハッチの一つがばたんと鳴っただけだった。隣では、わたしの少年の愛人であるセヴェリアンが、若者らしい気楽な寝息を立てて眠っていた。(中略)
わたしはひどく混乱し、精神の動揺に引かれて転びそうになった。
わたしは手をよじった。だが、わたしがよじった手は、わたしの手ではなかった。右手は大きすぎ、強すぎるように感じ、それと同時に左手も同じような手だと感じた。--「調停者の鉤爪」第18章
オリサイアの避病院でセヴェリアンの介護をするペルリーヌ尼僧団の尼僧アヴァは、セヴェリアンの中にセクラの意識が存在するにいたった理由を次のように説明してみせます。
「それなのに、わからないんですか? それは彼女を実際に蘇らせたんですよ。あなたが知らなくても<鉤爪>は働くことがありうると、たった今いったでしょう。あなたは<鉤爪>を持った。そして――あなたの言葉に従えば――腐りかかっていたそうですが、彼女を自分の内部に持った」--「独裁者の城塞」第10章
確かに、<鉤爪>の力によって――死んでいたセクラの時間をねじまげることにより――セクラが蘇ったというのは、もっともらしい解釈です。その一方セヴェリアンは、本人が言うところの絶対記憶によって、過去の出来事をあたかも現在の出来事であるかのように意識の中で再現できることができます。しばしばそれはセヴェリアン本人のコントロールを越えたものとなり、セヴェリアンは白日夢の中で我を忘れることになります。
従って、一時的にであれアルザボの薬でセクラの記憶(もしくは意識の一部)を自分の中に取り込んだセヴェリアンは、その絶対記憶によって、常にセクラの意識を自分の中に持ち続けることになります。すなわち、ことセクラの復活に関しては、<鉤爪>の力を持ち出すまでもなく、セヴェリアンの絶対記憶という特殊能力(もっともこれが本当に絶対記憶なのかという問題は何度も指摘している通りですが)だけで説明できることになります。<調停者の鉤爪>は一般に宗教的な力を持っていると信じられており、セヴェリアン自身も数々の例からそれを信じ込んでいますが、このエピソードは、アヴァによって<鉤爪>の神秘的な力を用いた説明がなされることにより、逆にそれが必ずしも真実でないという可能性を示唆しているようにも思われます。
セヴェリアンがセクラの死体を食べて、彼女の精神を自分の中に取り込むこと自体、偶然の結果ではありません。
独裁者がいった。「ある役人たちが、きみが腹違いの妹の愛人に情報を伝えていたことを知って、君を誘拐した。きみは密かに連れ出された。なぜなら、きみの家族は南部で大きな影響力を持っていたからだ。そして、ほとんど忘れ去られた牢獄に運ばれた」(中略)
「きみがヴォダルスに対して抱いていた忠誠心の大部分は、おそらくあの女城主から生じたものだ。ある部分は、彼女がまだ生きていた間に彼女から分け与えられたものであり、もっと多くは、死後に分け与えられたものだ。きみがいくら世間知らずだったとはいえ、食屍者たちによって供せられた肉が彼女のものであったことが、偶然の一致だと考えるほど、世間知らずではあるまい」(中略)
「きみが組合の仲間に監禁されている間に、彼は、自分に対して死ぬほど忠実だったセクラの方がすでにいないことを知ったのかもしれない。彼女の肉を追従者に食べさせたのは、それで彼らの忠誠心を強めるつもりだったのだろう。彼女の死体を取る動機は、それ以外に必要なかった。そして、彼女を地下室か、またはあの地方にいくらでもある廃坑の一つの雪の中に埋め替えたにちがいない。きみが到着し、彼との結合をのぞみ、彼はセクラの方を持ち出すことを命じたのだ」--「独裁者の城塞」第25章
ここで独裁者は、ヴォダルスがまさにセヴェリアンにセクラの肉を食べさせる目的を持っていたこと、それがおそらくサルトゥスの町からセヴェリアンを連行しようとしたそもそもの理由であったことを示唆しています。ただし、あくまでもゲームの駒にすぎないヴォダルスが、どのような理由でセヴェリアンにセクラの肉を食べさせ、彼女の意識を取り込ませようとしたのかがはっきりしません。ヴォダルスは独裁者とイナイア老に操られているにすぎないので、実際には独裁者とイナイア老こそが、全てを取り仕切っていたと考えるのが自然でしょうか。
そうだとすると、彼らの目的は何なのでしょう。あるいは、セクラの方を取り込ませることにより、セヴェリアンが「多数の命」である独裁者となるための準備をさせる、そうして「新しい太陽」をもたらすという究極の目的に奉仕させる、ということだったかもしれません。
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