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09/29/2002
セヴェリアンの属する「真理と悔悟の探求者」組合に属する者の俗称。ネッソスの一角にある<城塞>の中の<剣舞(マタチン)の塔>に全員が住み、また仕事場としています。往時にはかなりの人数が組合に所属し、またネッソス以外の町にも組合の支部があったものと思われますが、セヴェリアンの時代には勢力は衰え、その数は徒弟まで含めても数十人にまで減少しています。
わたしが今書き記している時代、つまり、組合が、二人の師匠と二十人以上の職人にまで縮小してしまった時代においてさえ、これらの伝統は尊重されている。--「拷問者の影」第2章
拷問者は独裁者に仕える行政官たる<玉座の従者>の一員であり、直接独裁者やその側近から命令を受けることもあるように、ある意味きわめて強い力を有しています。ところが現実にはその罪人――時には無実の者も含まれる――に拷問を加え、処刑するという職務内容から、一般には卑しいものとして蔑まれています。
組合がこれほど長い間迫害を受けている理由は、それが、大衆の憎悪の焦点としての役割を果たし、独裁者、高貴人、軍隊、そして、遙かなる星々からウールスを訪れる青白い退化人からもある程度まで、憎悪を引き離しているからだと、わたしは時々考えるのである。
番人たちにわれわれの身分を知らせるのと同じ服装が、しばしば住宅の住民を刺激するらしかった。上の窓から汚水を浴びせられたり、腹立たしげなつぶやきが後を追ってきたりした。しかし、この憎悪を生み出す恐怖心が同時にわれわれを守ってもくれた。真の暴力が加えられることはない。--「拷問者の影」第2章
セヴェリアン自身、ある時は卑しめられ、またある時は「死」と呼ばれもするわけですが、それが一転してウールスを再生させる<新しい太陽>をもたらす救世主となるわけです。このようにもっとも<生>と遠いと思われていた存在こそが救い主になるという象徴的な逆転関係は、実は拷問者組合の教義そのものの中に見られます。
聖キャサリンの日に職人に昇格する前、わたしはパリーモン師とグルロウズ師から組合のいろいろな秘密を明かされたものだが、この自叙伝を書きはじめた時には、それらの秘密をたとえ少しでも漏らすつもりはなかった。しかし、今その一つをお話しようと思う。なぜなら、それを理解しなければ、わたしがこの夜にディウトルナの湖上でしたことが、理解できないからである。その秘密とは、われわれ拷問者は服従する、というだけのことである。高く積み重なったすべての統治体の中で――どんな物質的な塔よりもはるかに高い、<鐘楼>よりも、ネッソスの<壁>よりも、テュポーン山よりも高い生業のピラミッドの中で――独裁者の<不死鳥の玉座>から、最も不名誉な職業の者、またその下働きをしている最も卑しい使用人にまで及んでいるピラミッドの中で――われわれは唯一の無傷の石なのである。想像もできないようなことを従順に実行する意志がなければ、だれも真に服従しているとはいえない。そして、われわれ以外に、想像もできないようなことをする者はいないのである。
キャサリンの首をはねた時に、みずからすすんで独裁者に与えたものを、どうして自在神に断ることができようか?--「警士の剣」第31章
拷問者組合の徒弟は、職人に昇格する際に、儀礼的に自分たちの守護聖女であるキャサリンの首をはねるわけですが、ここに拷問者と<新しい太陽>との親和性が読み取れます。つまり拷問者とは、自らの愛し欲するものを再生させるために、そのものを己の手にかけるものなのです。実際に拷問者が処刑をおこなう際にも、この関係は忠実に再現されます。
しばらくして彼は断頭台に登った、それから短い儀式が始まった。それがすむと、兵士が彼をひざまずかせ、わたしは剣を振り上げ、太陽を永久に覆い隠した。--「拷問者の影」第31章
断頭台の罪人の前で拷問者は太陽を背に立ちます。つまり<拷問者の影>が太陽を覆い、この瞬間罪人にとっては拷問者自身が<太陽>となるわけです。かくして<新しい太陽>の到来とともに罪人は死ぬわけですが、これは古い罪人――ウールス――の死によって新しいウシャスが生まれるという、"The Urth of the New Sun" の主題と呼応しています。
「宗教の秘儀を伝授された者の間では、こういわれる。 "おまえは永遠に秘儀を伝授された者なのだ" と。これは、その知識に言及しているだけでなく、その目に見えないしるしである聖油は、拭い去ることができないということを、言っているのだ。おまえはわれわれの聖油を知っているな?」
わたしはまたうなずいた。
「それは、彼らのものよりももっとずっと拭い去りがたいのだぞ。仮に今おまえが去れば、世間の人々はただ "彼は拷問者に育てられた" というだけだ。だが聖油を受けてから去れば、こういわれる。 "彼は拷問者だ" と。そして、おまえが農夫になろうと、兵士になろうと、やはり "彼は拷問者だ" といわれるだろう。わかるか?」--「拷問者の影」第10章
ウルフは "The Castle of the Otter" 所収のエッセイ "Helioscope" の中で、拷問により処刑されるイエス・キリストに対する存在として、イエスを処刑した「拷問者であることの苦痛」を描こうと思ったと書いています。即ち<新しい太陽の書>の中では「拷問する者」と「拷問により殺される者」とが鏡像関係となっているのです。聖油を授けられたイエスが救世主となったのと同じように、拷問者もまた聖油を授けられることにより拷問者となり、彼らなりのやり方でまた救世主となるのです。ただしイエスの場合には贖いのために自分自身の生命を捧げたのに対し、拷問者=セヴェリアンの場合には、人類の再生のためにウールス自体を犠牲にするという、より過酷な選択を迫られるわけですが。人々に死をもたらす拷問者の仕事は、このより大きな目的のための予行演習ともいえるものです。
「結局、わたくしどものやっていたことをやらせる人間が必要になるでしょうから。それを "癒し" と呼んでくださってもけっこうです。そのようなことはしばしばなされてきました。あるいは "儀式" でもけっこうです。それもしばしば行なわれてきました。しかし、その事柄自体は、そういった仮名のもとで、ますます恐ろしいものになっていくことはおわかりでしょう。(中略)
それは善人によってなされねばなりません。あなたは悪い忠告を受けておられます、独裁者様!耐えられないのは、それが悪人によってなされることです」--「独裁者の城塞」第33章
このような拷問者であることの苦痛、他人に苦痛を与えざるを得ない存在であることの苦痛は、ある意味人類全体に課された原罪ともいえるものです。全てを見通しているドルカスはセヴェリアンに言います。
「もし、わたしたち女の思うとおりにできたら、男はみんな放浪したり、血を流したりする必要はなくなるでしょうに。でも、女が世の中を作っているわけじゃないのね。あなたがた男はみんな、なんらかの意味で、拷問者なのよ」--「拷問者の影」第30章
原罪である以上、人は誰も拷問者であること=苦痛を与え、与えられる存在であることから逃れることはできません。
愛は独裁者にとって長い労働である。そして、たとえわたしが組合を解体するとしても、イータは誰もがそうなるように拷問者となるだろう。そして富なくして一人前の男とは言えないにもかかわらず富を軽蔑することにとらわれ、望むと望まざるとによらず相手に苦痛を与える人間になるのだろう。わたしは彼を気の毒に思い、船乗りの娘マクセリンディスをもっと気の毒に思った。--「独裁者の城塞」第37章(ただし斜体字部分は管理人訳)
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