ジーン・ウルフ インタビュー

Last Updated:

11/24/2002




James B. Jordan 氏によるインタビューより<新しい太陽の書>について

James B. Jordan 氏が1992年におこなったウルフへのインタビューから<新しい太陽の書>に関する部分を抜粋しました。インタビュー全文は大変長いもので、<新しい太陽の書>以外にも、宗教、政治、科学、女性、賞、また "Peace""Soldier" シリーズ他の作品についても触れられています。インタビューの記述からすると、これは同年のいずれかのSFコンベンションの際におこなわれたものです。

以下のインタビューを読んで感じるのは、ウルフが相当シリアスなカトリック教徒であるらしいということです。このインタビューの別の部分でウルフは、もともとプロテスタントの長老派の信者の家庭に生まれたが、カトリック教徒の妻との結婚を機にカトリックの教義を勉強しだし、ついには改宗したと述べています。そうしてみると<新しい太陽の書>の主題は、日本人が考える以上に宗教的な意味合いが強いと言えるのかもしれません。もっとも宗教的な部分を無視してもさまざまなレベルで楽しめるのがウルフの小説の大きな魅力ではありますが。

James B. Jordan: ウールス・サイクル(とりあえずそう呼ぶことにします)では、明らかに記憶というものが重要な主題となっていますね。またあなたは秘蹟、とりわけ洗礼の秘蹟をこのシリーズの中に何度も取り入れています。登場人物が水との接触をおこなって、なんらかの死と復活を経験する例がたくさんあります。また<聖体拝領>のイメージも登場しますね。

Gene Wolfe: 確かに邪悪な<聖体拝領>が登場します。そこでは人々は死者の記憶を得るために死体を喰らいます。一方カトリックの聖餐式で信者が<聖体>を受け取るとき、それは神秘的な意味においてキリストの肉を受け取るのです。彼はキリスト自身が求めたことをおこなっています。つまりキリストの小さな一部を自分の中に取り込むことによって、自分自身がより<キリストのようなもの>になるのです。それでわれわれはミサに出席し「わたしはよりキリストのようになりたい」と言いながら<聖体>を拝領します。<聖体拝領>を執り行う司祭なり助司祭なりは「主キリストの肉」と言いながらホスチア(聖体拝領に用いられるパン)をかかげ、あなたはこたえてアーメンと言うわけですが、それは「はい、私はこれが主キリストの肉だと認めます」という意味なのです。そしてあなたはそれを受け取って食べるわけです。

James B. Jordan: そのような転置関係のクライマックスとなるのが、セヴェリアンが前の独裁者の脳を実際に食べる場面です。この場面は邪悪な聖体拝領の別の例なのでしょうか?それとも何かもっと必要不可欠なものなのでしょうか? 物語的にはこれは必要な場面に思われますが。

Gene Wolfe: 私がここで言おうとしていたのは、良い統治者になるためには、その統治の伝統、つまり国家や、過去に統治をおこなってきた人々の伝統を良く知っている必要があるということです。いいえ、これは邪悪な聖体拝領ではありません。邪悪なのはヴォダルスや墓場泥棒がやっていることです。

James B. Jordan: 単にスリルを求めてそれをおこなう連中ですね。

Gene Wolfe: まあそうですね、些細な理由からそれをおこなう人々です。悪というものは何か良いものを捻じ曲げたり誇張したりしたものです。今ではあまり理解している人はいませんが。

James B. Jordan: それ以外にもカトリック教会の秘蹟と同様のものが物語の中にありますか? セヴェリアンのさまざまな女性関係が結婚生活の誤った形態だとか、なんらかの象徴的な意味あいを持つとか?

Gene Wolfe: ああいったことは愛の探求のあらわれといったほうが適当でしょうし、それ自体人生における重要な探索だと思います。われわれが人生において本当に探し求めているものは愛なのです。あなたが手紙で書かれていたように、私はセヴェリアンのことをキリストの象徴とは考えていません。そうではなくてセヴェリアンはキリスト教徒の象徴なのだと思います。彼は大変よこしまな環境に生まれながら、少しずつ良いものになろうとする人間です。思うに誰もが心のどこかに、より良い存在になりたいという本能を持っているのです。ある者はその本能を完全に無くしてしまいます。われわれは自分自身のそういった部分を、ちょうど自分自身の中の子供の部分を殺すように殺してしまうのです。その本能はわれわれの中の子供と大変深く関係しているのです。

James B. Jordan: ヴァレリアはセヴェリアンにとって究極の愛の対象なのですか?

Gene Wolfe: いいえ。

James B. Jordan: それでは究極の愛というものは物語の中のどこかに存在するのでしょうか?

Gene Wolfe: 誰にとっても究極の愛の対象とは神のことだと思います。それは別の人間のことではありません。もし妻がここにいたら深く傷つくかもしれませんが。(笑)人が愛することができるのは神だけだと言っているわけではありません。愛の究極の対象は神だと思うのです。

James B. Jordan: わかりました。しかし人間生活の範囲内において、セヴェリアンは結局それを探しつづけるわけですね?

Gene Wolfe: その通りです。

James B. Jordan: あなたは "Soldier of Arete" (管理人注:ファンタジー作品 Soldier シリーズの第二作)の中で実際「人間は他の人間にとっては狼だ」と書いています。あなたはこの狼の比喩を明らかに何度も用いていますが、ここでホラー小説に関する質問があります。あなたがこのコンベンションで参加したパネルはどちらもホラーに関するものです。ところがあなたは実際にはホラー作家ではないし、読者にショックを与えるために書いているわけでもありません。一方あなたの小説の中では、読者にある効果をもたらすため、読者にショックを与える、または恐怖させるよう計算して書かれたかのような部分があります。その効果とは――うまくいけば――読者にあなたが提示している「これは悪いものであり、あなたはショックを受けるべきである」という主題に反応させることです。そこで狼の主題なのですが、"The Hero as Werewolf" という物語(管理人注:短編集 "The Island of Doctor Death and Other Stories: And Other Stories" 所収の短編小説)では読者に何を考えさせようとしていたのでしょうか?

Gene Wolfe: 私は読者に男と女の間の愛の本当のかたちについて考えさせようとしていたのです。第一に、"The Hero as Werewolf" に登場する少女は知恵遅れで話すことができません。次に彼女は自分の愛する男を自由にするために、その男をひどく傷つけねばなりません。思うに私は次のようなことを言わんとしていたのです。まず、愛が真実のものであるためには愛する相手が自分と全く同様の存在であるべきだ、とは考えてはならないこと。次に、われわれは、もし誠実であろうとするなら、人に良いことをするために当の相手を傷つけることは避けられないこと。相手に良いことをなすためには、その相手を引き裂かねばならないのです。

James B. Jordan: "Hero" に登場する若者はセヴェリアンと同じく足に傷を負っています。これは聖書となにか関連はあるのでしょうか? たとえば足に傷を負うのは、創世記第3章にある、頭を砕かれることの象徴でしょうか?(管理人注:知恵の木の実を食べたアダムに対して神が言った言葉より)

Gene Wolfe: よくわかりません。関連があるにしても、それは無意識のものです。意識的にその部分を書いたとは思いません。ただ聖書の挿話を非常に反映しているとは思います。

James B. Jordan: それは聖書の中の主題です。創世記第32章では、ヤコブが足を引きずって歩くことになります。(管理人注:ヤコブは天使と組み打ちをし、関節をはずされる)あたかも神は私たちを成長させるためには、私たちを傷つけることが必要なのだと言っているかのようです。あなたがとりわけセヴェリアンの物語で示したように。

Gene Wolfe: それは同じ事です。神は人間の愛人よりも上にある究極の愛人なのですから、そうせざるを得ないのです。もし私が働く必要がなくて、厄介ごとに巻き込まれたこともなく、誰もが私のことを素晴らしいとかなんとか言うとしたら、さぞや幸せなことでしょう。しかし長い目で見ればそれは、より大きくより良い人間を作り出す方法とは言えません。一方、とても深い人間、また何かに本当に傷つけられた人間に出会うこともあります。例えば、ハノイ・ヒルトン(管理人注:ベトナム戦争時の捕虜収容所の俗称)に何年も閉じ込められていた捕虜とか、そういった人です。するとあなたは、そういった人の中に、何か自分にはないものがあるのを見つけるのです。私は自分が他の人のように苦痛から逃げ出したりしないとか言っているわけではありません。私は平均と同じくらいか、もう少し臆病な人間ですから。

James B. Jordan: 私は人間が苦痛を喜んで迎えるべきだとは思いませんが、一方、もし苦難が訪れたときには、その目的を理解する…

Gene Wolfe: 理解しようとする。

James B. Jordan: 魂の暗黒の夜とかなんとかをですね。

Gene Wolfe: 人々はいつも「どうしてなんだ? 他のものじゃだめなのか?」と言いがちです。これはまさに苦痛というものの持つ問題で、C. S. ルイスがそれについてエッセイを書いています。ところが、いまだに苦痛というものをこれまで誰も考えたことがないかのように話す人もいます。苦痛というものの考え方は、人を破壊的なものから遠ざけるためのものです。あなたは「確かに神が自分たちになにかを教えるには苦痛以外のやり方があるはずだ」と言います。確かに他のやり方はあるでしょうが、あなたは他のやり方に対してもやはり、苦痛に対して文句を言うのと同様に文句を言うでしょう。他のやり方は状況の飾りを変えるかもしれませんが、状況そのものを変えるわけではないのです。

James B. Jordan: もしあなたが神は良い意図をお持ちだと信じていらっしゃるなら、それでは苦痛とはなんであれ、実際には最良の救済だということになりますね。そうすると、セヴェリアンがその影であるところの拷問者というものは神なのでしょうか? そしてセヴェリアンはその<拷問者>の影なのでしょうか?

Gene Wolfe: いいえ、思うに拷問者とは犠牲者と神との間にやってきて、そこに影を投げかけ、抑圧者あるいは悪魔的な存在としてあるものです。セヴェリアンは拷問という職業から抜け出して、自分の道を進むのです。

James B. Jordan: それでは神がわれわれに対しておこなうことと拷問者の行為の間には類似点が見られますが、それがあなたの意図だというわけではない、ということですね。むしろそういった考えの倒置なのでしょうか?

Gene Wolfe: そうですね、私は拷問者が神の御手だとは考えていませんでした、あなたがそういう意味でおっしゃっているならですが。そのようには思っていません。悪魔も時に神が悪魔になさしめたいと思うことをなしますが、悪魔自身がそうしたいと考えるわけではありません。拷問者もまたしかりです。拷問者はしばしば神が望むことをおこないますが、それは神を喜ばせようとしてのことではありません。

James B. Jordan: なるほど、拷問者は神がイスラエルの民に対するものとしてもたらしたアッシリア人のようなものなのですね。

Gene Wolfe: そう、旧約聖書のハブクク書にあるようにね。

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