Last Updated:
08/24/2002
「独裁者の城塞」の冒頭でセヴェリアンはある兵士の死体に出会います。死体の持っていた食糧によって飢えを満たした後、セヴェリアンは良心の呵責から<鉤爪>により兵士を復活させ、一緒にペルリーヌ尼僧団の避病院に赴きます。死から生の世界に戻ってきた兵士は過去の記憶を亡くしおり、セヴェリアンは、この兵士――セヴェリアン自身が<ミレス>と名づけます――はかつての友人ジョナスの再来だと考えます。
「われわれは墜落したんだ。あまり長い年月が経っていたので、帰還した時には、ウールス上に港がなくなっていた。船着場がなかったのさ。墜落の後、わたしの手は取れ、顔がなくなっていた。同僚の船員たちができるだけ修理してくれた。だが、もう部品がなかった。生物学的材料しかなかったんだ」--「調停者の鉤爪」第16章
ジョナスはセヴェリアンの時代よりもはるか昔にウールスを発ったアンドロイドの宇宙船乗りでしたが、ウールスに戻ってきた時に負傷し、やむなく手近にあった生物学的材料(おそらく事故で死んだ羊飼いの身体)を用いて、壊れた身体を修復されたものです。それ以来、ジョナスは宇宙に戻る方策を求めて数百年間ウールスをさ迷いますが、タロス博士の一行にいたジョレンタに出会い恋に落ちます。<絶対の家>の<控えの間>の囚人たちとの会話から不時着した船員の運命を悟ったジョナスは、<イナイア老の鏡>を見つけてウールスを去ります。
「これがきみの唯一のチャンスなら、行くがいい。幸運を祈るよ。もしジョレンタにあったら、きみは一時は彼女を愛したが、結局それだけだった、と伝えてやる」
ジョナスは首を振った。「わからないのか?修理がすんだら、彼女のところに戻ってくるつもりだぞ。正気になって、五体満足になったらね」--「調停者の鉤爪」第18章
セヴェリアンは自らが復活させたミレスをジョナスの再来であると確信します。なぜセヴェリアンがそのような確信を持ったのか、またそれは物語内の論理で説明できるのか議論がありますが、以下のような断片をつなぎ合わせることによってだいたいの説明は可能だと思います。
「暗闇を飛んでいた。そうだ、おまえといっしょだった。それから、太陽がおれたちの頭のすぐ上にかかっている場所にきた。おれたちの前に光があった。だが、その中に歩み入ると、それは一種の暗黒になった」--「独裁者の城塞」第4章
これは死の世界から戻ってきた心象風景のようにもとれますが、ジョナスが<イナイア老の鏡>により帰っていった場所を考慮すると、別の解釈もできます。<イナイア老の鏡>の先にあるのは、ジョナスの乗組んでいたような宇宙船か、もしくはイエソドの世界だと考えられます。先ほどのミレスの台詞は、"The Urth of the New Sun" でセヴェリアンが<新しい太陽>を招来するためにイエソドの世界――ウールスやその他の星々を含むこの宇宙=ブリアーの外側の高次の宇宙に属します――に向かいますが、その際にイエソドの太陽を描写する場面とよく似ています。であるならば、ミレスはイエソドの世界で再生されてウールスに帰ってきたジョナスだと考えられます。
「おまえと歩いていた。暗闇が続いた・・・・・・おれは倒れた。いや、ことによったら暗闇の中を飛んだかもしれない。自分自身の顔が見えた。いくえにも、いくえにも重なって見えた。赤みがかった金髪の髪の、ものすごく目の大きい女がいた」
「美人か?」
彼はうなずいた。「世界一の美人だった」
わたしは声をあげて、だれか鏡を持っていたら、ちょっと貸してくれないかと頼んだ。フォイラがベッドの下の私物の中から鏡を出した。わたしはそれを持ち上げて、彼に見せた。「これがその顔か?」
彼はためらった。「そう思う」--「独裁者の城塞」第6章
ジョレンタへの渇望によってウールスを去り、またウールスに戻ってきたジョナス=ミレスは、戻る途中の旅でジョレンタの姿を幻視し、また鏡の中にも愛する女の姿を見たのでしょう。せヴェリアンがミレスに出会ってから避病院に向かう場面では、セヴェリアン自身が熱病によって意識の混乱を経験しており、セクラの方が意識の前面に出てきたり、記憶と想像の入り混じった不可解な経験をしたりしています。そのようなセヴェリアンの状態と、生の世界に戻ってきたばかりのジョナス=ミレスの混乱とが入り混じって、ミレスにジョレンタの顔を見せたのかもしれません。なおこの「赤みがかった金髪の」女がジョレンタだというのは次の部分でわかります。
やがて、わたしはジョレンタが眠っていることに腹が立ってきた。それで、オールを放し、クッションの上の彼女の横にひざまずいた。いかにも人工的ではあるが、彼女の寝顔には、起きているときには見たことのない、清らかさがあった。彼女にキスすると、その開いたか開かないくらいの大きな目が、アギアの目のように長く見え、その赤みがかった金髪が、ほとんど茶色に見えた。--「調停者の鉤爪」第23章
余談ですがこの場面は、親友のジョナスが「いつかジョレンタに会いに必ず戻ってくる」と言って去っていった直後です。しかもセヴェリアン自身、長らく探し求めていたはずの最愛のドルカスと再会したばかりなのです。普通ならドルカスと別れていた間のあれこれを語りあったりしそうなものなのに、セヴェリアンはというと、ドルカスが芝居の準備をしている間に、親友の想い人をなかば陵辱するしまつです。
わたしは彼女の着物を解いた。厚いクッションに催眠剤でも仕こんであるのか、それとも、野天を歩いてきたただの疲れのためか、豊満な官能的な肉体の重みのせいか、彼女はなかば麻薬に酔ったような状態になっていた。その乳房を露わにすると、左右のそれぞれがほとんど彼女の頭くらいあった。そして、太股の間には、かえったばかりの雛がいるように見えた。--「調停者の鉤爪」第23章
拷問者かつ独裁者だからといって、いくらなんでもこれじゃあドルカスが可哀想です。
セヴェリアンがジョナス=ミレスだと確信した別の証拠は、ミレスの言葉づかいです。
「おれたちが出会った最初の晩に、おれが名前を尋ねたら、おまえは、 "どこか途中でなくしちまったよ。これは、山羊を案内してやると約束した豹の台詞だな" といった。これを覚えているか?」
彼は首を振った。「おれはいろいろ馬鹿なことをいうよ」
「おれは変だなと感じた。なぜなら、これはいかにもジョナス流の表現だが、表面的な意味よりももっと多くを伝えたいと望んでいるのでなければ、あんなことはいわなかったはずだ。たぶん "ざると同じさ。水をいっぱい入れておいたんだがなあ" とかなんとかいったろうに」
返事を待ったが、彼は答えなかった。
「もちろん、豹は山羊を食った。その肉を飲みこみ、骨を噛み砕いた。どこか途中でな」--「独裁者の城塞」第6章
ジョナス=ミレスが名前と記憶を亡くしてしまったのは、生の世界に戻ってくる途中で豹に食べられてしまったためです。豹は山羊の肉を食べ、骨を噛み砕いて自分自身が山羊になったのです。イエソドからウールスに戻ってくるために物理的な肉体を必要としたジョナスは、たまたま死んだ兵士=ミレスの身体に宿ったのかもしれません。ただしこれは単にジョナスの精神がミレスの肉体を乗っ取ったわけではなく、一つの肉体の中にジョナスとミレスという二つの存在が共存するのでしょう。
一つの肉体の中の複数の存在、山羊を食べることにより豹が山羊となる、というモチーフは、セヴェリアンの中のセクラ、歴代の独裁者、それにキャスドーを食べようとするアルザボなど「新しい太陽の書」の随所にあらわれます。これは「セヴェリアンの復活と死」という主題とも密接に結びついているようです。
それでは何故ジョナスが都合よくミレスの身体に復活したのでしょうか?ジョナスにジョレンタを求めてウールスに戻ってくる意志があったにしても、偶然にセヴェリアンの前にあらわれたとするのは無理があります。ここはやはりセヴェリアン自身が求めたが故にジョナスをウールスに呼び戻したと考える方が自然でしょう。ジョナスはセヴェリアンにとって、組合を去ってから唯一の友人と言える存在でした。他にもドルカスやセヴェリアン少年らに対しても深い感情的な絆は存在したものの、「親友」と呼べる存在はジョナスだけです。ドルカスはセヴェリアンのもとを去り、少年は殺され、一人残されたセヴェリアンは、無意識のうちに<鉤爪>の力でもって「親友」を復活させた(イエソドから呼び戻した)のでしょう。
しかしこのように、無意識にせよ自分の都合よく人を復活させるセヴェリアンとは何者なのでしょうか?偶然セヴェリアンの前に復活したに見えたドルカスの場合も、実はセヴェリアン自身のなんらかの意志によるものなのでしょうか? "The Urth of the New Sun" において、セヴェリアンが<新しい太陽>を到来させることにより人間以上の存在になっていく過程が描かれていますが、第4作までの中でもセヴェリアンの「神化」はかなり進行しているようです。私たちが思う以上に、カトリック教徒であるウルフの中では「人の子」であると同時に「神」である存在を描く、ということが重要なテーマなのかもしれません。そのような主人公の書いた一人称の「手記」の記述を読者がどこまで信用できるのか、という問題はありますが。「手記」の話者が誰で、どこまでが事実でどこからがトリックなのか、という問題はこの「新しい太陽の書」の続編であり三人称で書かれている「長い太陽の書」「短い太陽の書」でも重要なポイントであるようです。ウルフはかなり意識的に「手記」に記述する部分と記述しない部分を選んでいるように思われます。
ところで某所でセヴェリアンのフェミニスト振りやなにかについて論じていた際、ある人が「(セヴェリアンは)供物は、ありがたく頂く」と発言なさったのですが、これはなかなか言い得て妙だと思いましたね。