セヴェリアンの復活と死

Last Updated:

08/11/2002




復活と死

シリーズ第一作「拷問者の影」の第1章は「復活と死」と題されています。ここではセヴェリアンがギョルでの水浴からの帰り道、ヴォダルスの一行に出会い、その命を助けて忠誠を誓う場面が描かれています。それではいったい何が「復活」で何が「死」なのでしょうか?この場面ではヴォダルスの一味は女の死骸を墓から盗み出し、おそらくその死骸はアルザボの儀式に用いられてある意味「復活」を演出するのかもしれません。またヴォダルスを阻止しようとした民兵には「死」が訪れます。しかしこの趣向を凝らした長大な物語の第一章の「復活」と「死」が、それを意味するようには思えません。そうではなくウルフは、この章題により「新しい太陽の書」という物語全体が「復活と死」の物語であると示していると考える方が自然でしょう。(なぜ「死と復活」でなく「復活と死」なのか、何か意味があると思うのですがよくわかりません)

なお死と復活、またそれによる贖罪となると、当然キリスト教におけるキリストの姿が思い浮かびます。ウルフ自身は熱心なカトリック教徒のようなので、実は「新しい太陽の書」でウルフは(およびその後の「長い太陽」「短い太陽」シリーズにおいても)かなり大真面目にキリスト教と信仰の物語を語ろうとしたのではないかというふしがあります。しかしキリスト教を云々するのは筆者の手には余りますので、ここではもっと一般的な意味での「復活」のテーマを考えてみたいと思います。

「復活と死」とは、まず主人公であるセヴェリアン自身の「復活と死」を意味します。続く第2章は「セヴェリアン」と題されており、これも少しばかり奇妙な題だと言えます。なぜなら、この物語はセヴェリアン自身が記した手記の体裁をとった、セヴェリアンによる一人称小説であり、当然セヴェリアンは第1章の冒頭から登場しているからです。「セヴェリアン」という題からは、まるでセヴェリアンという人物がここではじめて登場したかのような印象を受けます。

おそらくそれがまさしくウルフの意図したことなのでしょう。第2章でセヴェリアンは、ギョルで溺れかけ、水の精と(おそらくは)マルルビウス師により助けられます。シリーズ第5作 "The Urth of the New Sun" では、セヴェリアンは実はこの場面で溺死しており、おそらく水の精とマルルビウス師の力によって、エイドロン(アクアストル)として復活させられたのではないかと思わせる描写があります。だとすると「この」セヴェリアンは、まさにこの場面で物語にはじめて登場したことになります。第2章の場面は時間的には第1章の前なので、「セヴェリアン」というタイトルは第2章につくわけです。

三つの復活

「新しい太陽の書」中の随所にあらわれる「復活」と「死」のモチーフは、「復活」が何によってもたらされたかにより、三つのパターンに分けられます。

一つめの「復活」は、<調停者の鉤爪>の力(実際にはセヴェリアン自身の力)によってもたらされます。鳥の湖の水の底での死の眠りから復活させられたドルカス、重病で死にかけているのを救われたあばら家の少女、戦闘で死んでいるところを復活させられたミレスなどがこのタイプの復活の例です。血染めが原でのアギルスとの決闘で一旦は死にかけたセヴェリアンが蘇ったのも、<調停者の鉤爪>の力が自分自身におよんだものだと思われます。シリーズ第5作の "The Urth of the New Sun" では、セヴェリアンの力が強くなることにより、より直截に死者あるいは死にかけた者の復活がなされます。

二つ目の「復活」は、死者が(多くは神殿奴隷の力により)アクアストル=エイドロンとして復活させられるものです。セヴェリアンを導くためにマルルビウス師とトリスキールが復活させられたのがこの例です。また、ギョルで溺れ死んだ(?)セヴェリアンが復活するのも、このタイプの復活だと言えます。こちらも "The Urth of the New Sun" では、セヴェリアン自身の死とエイドロンとしての復活が繰り返し物語られます。

三番目の「復活」は、アルザボの腺からつくられた薬品とともに死者の肉を食べることにより、死者の記憶を蘇らせることです。ヴォダルスの一味は儀式的にこの種の「復活」をとりおこなっていますし、歴代の独裁者の記憶も、同様の方法によって次の独裁者に伝えられます。アルザボに喰われた人間がアルザボの声で話すのも、死者がアルザボの中で復活したと言えます。またセクラの方がセヴェリアンの中で復活するのは、このタイプの復活と第一のタイプの復活の組合せです。

宇宙の復活

このように人間レベルでの「復活」は手を変え品を変えてあらわれますし、そもそもこの物語の主題自体が<古い太陽>を<新しい太陽>として、ウールスをウシャスとして「復活」させ、それにより衰えゆく人類を「復活」させることであるわけです。さらにマルルビウス師によって語られる宇宙のサイクル=<神聖な年>についても、より壮大な規模での死と復活と言えます。第一のタイプの「復活」について、"The Urth of the New Sun" ではセヴェリアン自身が<新しい太陽>と一体化し、星のエネルギーを用いることができるためと説明されています。すなわち宇宙の中の小さな存在である人間が、巨大な恒星と一体化しているわけです。そうすると、個々の人間のレベルでの「死と復活」は、星のレベル、さらには宇宙のレベルでの「死と復活」のメタファーであり、かつ同一のものであると考えられます。これは新プラトン主義的に、上位の宇宙の属性が<流出>したものと考えられます。

ここで注意したいのは、いずれのタイプの「復活」についても、(擬似)科学的な説明がなされていることです。だからといってウルフが「死と復活」というテーマを科学的に説明しようとしたわけではないと思います。逆にウルフは、SFおよび(擬似)科学的説明という衣をまといながら、「死と復活」さらには「信仰と服従」といったテーマを語ろうと試みたのではないかという気がします。

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